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父の緊急搬送、 入院(4) / ウズアジサイ アカンサス

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6月20日(金)

味戸ケイコさんからお手紙が来ていた。

病院へ行く道の端っこの植え込みに、「半夏生(はんげしょう、カタシログサ)」を見つけた。

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一見、花びらかと見える白い葉っぱが「半化粧」している。大雨が近い季節。

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病院の近くの細い小道。

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小道の途中にある鬱蒼とした植物の群れ。

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ギリシャ建築のモチーフによく使われていた大きなアカンサスの花房。アカンサスをデザインしたモチーフのデッサン用の石膏板が予備校にあったのを思い出す。

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病院に行くと、ものすごくショックなことに、庭の真ん中の芝部分に生えていたいわゆる雑草、ハルノノゲシ、シロツメクサ、ハッカなどを電動草刈り機で刈っている人がいた。

これがきのうまでの、私が慰められていた草たちの姿。今はこの草たちはなく、つるつるで、敷石と芝生だけが残っている。

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芝生部分に密生していた薄荷は全部刈り取られてしまったが、庭の隅っこにまだ密生していた薄荷を撮っておいた。

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この薄荷を一本摘んで、匂いを嗅ぐだけで、幾分か慰められる。

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父の退院のためのカンファレンス。17日に相談したMSWのM・Sさん、MSW長のO・Aさん、看護師長さん、ケアマネのMさんとヘルパーのMさんと私と妹で父が自宅に戻るための必要な看護と介護保健サービスの限界などについて話し合った。

きょうの父はほとんどしゃべらず、少しぐったりしていた。担当のA・S医師の話によると、昨日糖尿の薬を変えたら血糖値が70くらいまで下がり食欲も下がった。それできょうは37・6度くらいの熱がある、実は昨日はもっと具合が悪かったとのこと。

炭酸濃度に関して確認の質問をすると、入院以来81~60くらいで推移していて(通常の人の正常値は35~45で、70超えたら意識混濁なのだが、)81の時でも意識レヴェルは変わらなかったそうだ。

食事は現在、まだ訓練食。よく噛まないでかきこむ傾向があると言われた。これで退院して、またすぐに誤嚥するのじゃないかと不安だ。

食事、買い物、掃除、洗濯、入浴のなにひとつ普通にひとりでできる状態とは思えないが、介護認定の変更を申請しても、生年月日などの記憶や直前の記憶力は普通なので、あまり介護度があがるとは期待できない。

今まで母と父の介護のキーパーソンがすべて私だったのだが、父に関してのキーパーソンを妹に変えてもらう。

カンファレンスのあと、妹と本当に久しぶりに話して、父を発端とする家族の精神的外傷の連鎖があまりに酷いことにあらためて愕然とする。妹の不安定さをまともに見て、ものすごく疲れた。

それでも家族の悲惨さを話す時、時々笑い出したくなるのは何故なのだろう。きょうも泣いている妹の前で私も泣きながらアハハハハハ、と笑ってしまった。妹は私が笑ったことに怒っていたが、ばかにしているわけではないのだ。普通だったら有り得ないようなこじれた関係性を被りながら生きていることが、時々すごく滑稽に感じて、おかしくて笑い出したくなってしまうのだ。

6月19日

近所で見つけたウズアジサイと普通のアジサイのキメラ。

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花弁に見えるところ(実際は萼)が平たく大きく開いている部分が普通のアジサイで、丸っこく縮まっているのがウズアジサイ。

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味戸ケイコさんからの手紙 / 文章、絵について

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6月24日

昼間、耳をつんざくような雷と豪雨。夕方、友人と会う。

文章についての話。それと今現在の私の状況――父が死にかかって、担当医師にもほとんど生きて帰れないだろう、非常に厳しい状態と言われたのに奇跡的に生き残ったこと。それによって家族の非常に悲惨にこじれた愛憎と精神的苦痛がまた問題になっている話。

文章についての話はとても難しい。

私の生は結構陰鬱でしんどい部分がある。それなのに植物と絵画についてのことだけを書いて、どういう価値が生まれるのか、自分自身でよくわからない、焦燥を感じるところが大きい。

絵についての話。

私が最近すごく惹かれてやまないもの。ヴィクトル・ユーゴーの絵。ピサネロの素描。モンドリアンの花の素描と水彩。エドワード・リアが14才の時に描いた鳥の素描。ロートレックの動物の素描。C・R・マッキントッシュの花の素描。ハイスムの花の素描。ジョン・ラスキンの素描。

意識して選んだわけではなく、あまり知られていないもの、巨匠の代表作と言われていない絵のほうに断然惹かれる。

たとえばモンドリアンの水平と垂直で仕切られた赤、黄、青の絵を私はあまり見たいとは思えない。それよりもモンドリアンの、心がざわざわと掻き立てられるような夕暮れの、ものの輪郭が曖昧になってきた時間の風景や、繊細な樹の素描や、涙をいっぱいためたような百合や菊の水彩のほうが魅力があると感じる。

かつて赤、黄、青の抽象が最高の到達点であると認めた権威者がいて、モンドリアンの価値は決まったのかもしれないが、彼自身はその抽象が高く評価された後も、憂いに満ちたような花の水彩を描いている。今の美術界で機能している絵画の評価基準とは何だろう、と思う。

友人はそれはものすごく重要な問題だと言った。

夜、調布や府中で猛烈な雹が降って、植物がずたずたに裂かれてしまったニュースを見る。

・・・・・・

先週の金曜(6月20日)に味戸ケイコさんからお手紙をいただいた。前に本と一緒にお送りした手紙の返信。どこをとっても凝縮されているような、とてもあたたかく、素晴らしいお手紙だった。

味戸さんの文字は、本当に味戸さんの絵と同じ、丁寧でコスモスの葉のようにそよいでいる植物の生命そのもののようなかたち。

「「思い出すことと忘れられないこと」は、見事に不思議にも子どもだった私と重なります。ふつう(ふつうとは何なのか未だにわからないけれど…)とはちがう、ふつう誰も目を向けない心をかけない、もの、ことにたまらなく惹かれ、愛着を持ってしまう子ども…

今の季節なら、あまり陽の差さない場所に咲いている細くてくねくねした枝にはらりと薄く小さいまばらな花びら、色合いも水をふくんだような、そんな紫陽花を愛おしい…と、相当、おとなになったはずの私も、いまだに変わらずに、こうして、生きています。

子どものときの知佐子さんに子どものときの私が会っていたら、きっととても仲良しになったと思います。でも今、こうして手紙を書けるのが嬉しいです。」 という、とても身に余るようなお言葉。

絵を見ればわかることだが、味戸さんも子どものころから話すのが苦手だったそうだ。「絵で話せばいいということなのかしらとも思っています。」 私もしゃべるのが苦手だった。家族とごく親しいともだち以外、人前ではまったく口を開かないような子どもだった。

味戸ケイコさんの文章で、僭越だが私がものすごく共感したものを引用させていただく。(『終末から』1974年4月)より。

「草むらのなかには空家がぽつんと、うつむいてたっていました。入口はしっかりクギづけされて窓のなかはいつもまっ暗でした。まるで夜を切りとったような暗やみがおそろしくて、いつも駈足でとおりぬけたのです。でもいつか、あの窓のなかを見てみたいというおもいに胸いっぱいになりながら走るのでした。そしてある日、とうとう決心したのです。ゆらゆらと背のたかい草は揺れていました。目のおくでまわりのものが白く滲んでゆきました。きがつくとわたしは、おそろしい窓のまえにたっていました。そして、その暗やみにすっぽり包みこまれたとき、そこにあったのは海の底にもにた優しい空間だったのです。」

父の緊急搬送4 退院 / 新宿焼身 集団的自衛権抗議

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6月27日(金)

西新宿保健センターの最後の日なので、健診関係の申請に行く。来週からは東新宿に移転して、新宿駅から歩くにはちょっと遠くなってしまう。

西口の横断歩道の前の植え込みに、植えてないはずの笹が繁茂していたのを見つけた。若い笹の葉の上に留まっているたくさんの雨の滴の玉が、とてもきれいだった。触ってみたらひんやりとはじけた。

6月29日(日)

父の退院。

4日前、25日に、夜間は呼吸が浅いので酸素吸入が必要と聞き、そんな状態で退院できるのかと思った。今の父は一時よりふらふらで口数も少なく、本人も「家に帰りたい」とは言わなくなったくらい元気はないのだが、とにかく退院となった。

父は病院のベッドを出てからエレベーターに乗るまでもふらふらして、エレベーターを待つ間もはあはあ、と肩で息をするような状態。

おととい27日に、酸素会社からの説明、キーボックスの設置、前のベッドの引き取りと介護用レンタルベッドの設置などを妹がやってくれ、きょうからいろんな介護関係の人たちにお世話になりながら自宅で暮らすことになった。

11時に病院に行き、清算。タクシーで父を福山家に運び、とりあえずあまりにもほこりがたまっているところを拭いたり、父に柔らかい食べ物を買ってきて昼食をとらせたりした。

強烈な日差しで頭がのぼせてしまい、少し具合悪くなった。2時前に福山家を出て、中央公園の木陰を歩いて新宿へ。

2時過ぎに新宿駅南口に着いたら、何やら煙が出ていて、警察や消防車がいっぱい来ていた。どこか近くが火事なのかと思ったが、人が多くて見えなかった。そのまま南口の駅の中、ミロードの前を通って階段を下り、高島屋のほうに向かった。

駅の中から通りの方がビニールシートの幕で遮られて見えなくなっていて、その前に警官が立っていたので、何が起きているのか見えなかった。

それが集団的自衛権の行使容認に対する抗議のための焼身事件だったと知ったのは夜、PCを見てのことだ。

ショックな事件なのに、あまりニュースで報道されていないようだった。安倍政権に対する抗議については報道が抑えられている感じだ。特にNHKではまったく報道されなかったらしい。

しかし海外では注目され、多くのメディアに報道されたみたいだ。

官邸前も集団的自衛権の行使容認、解釈改憲に対する抗議デモが盛り上がっているようだ。もちろん私も大反対だし、抗議デモに行きたいが、正直、首と肩と腰が痛くてどうしようもできない。

この日もとても激烈な不安定な天気だった。3時半くらいに高島屋を出てサザンテラスの上を歩いている時は南側の空は青く光り、北側の空はカオス雲だった。そのあと大きな雷鳴が轟き、ビルの12階の非常階段から外を見ると、無数の雨の鋭い剣が遮って街並みが見えない状態だった。

6月30日

母の夕食介助に行く。きょうは起きていた。夕食完食。「これぜんぶ好きなもの。」と言っていたのでよかった。

夕食後、薬と極みプリンと栄養補助食の桃ゼリーを食べさせる。

Gが来て一緒に中野へ。古本をたくさん買った。

天ぷら屋さんが定休日だったので、香林坊で台湾精進料理を食べた。

Gは吉田照美のラジオを聞いていて、新宿の焼身抗議事件について日本のメディアの報道は抑えられている(特にNHKはまったく報道なし)が、海外ではそうとうメディアに取り上げられていることがラジオで話題になっていると言った。

・・・・

うちの近所の、おばあさんがひとりで住んでいた古い家が明日(7月1日)取り壊しになるという張り紙がしてある。

ものすごくショックだ。

うちの近所の細い裏道にいくつも古い家があって、その細道を猫のようにそっと通るのが楽しみだった。

最初に潰されたのは屋根が膨らむように歪んでいた平屋で、オレンジの実がびっしりなるピラカンサの樹があって、玄関の扉にクリスマスのリースがずっと下がりっぱなしになっている家だった。そこには車椅子に乗ったおじいさんとそれを押すおばあさんが住んでいた。その家が潰された時、さみしくて、呆然とした。更地の土の上に、かつて誰かが使っていた油絵の具が落ちていた。

次に潰されたのは、やはり茶色い木の古い家で、おじいさんが一人で住んでいて、家のぐるりにびっしりと数えきれないほどの万年青や君子蘭の鉢が飾られていた。玄関横には山で拾ってきたと思われるたくさんの小石が積んであった。ぼこぼこした襞のあるハヤトウリがその石の山のてっぺんに飾られていた。

3番目に潰されたのは石屋さんの古い木造の作業場。ここには古い大きな石がごろごろしていて、どこかの墓場から引きあげてきた卒塔婆もよく置いてあった。息子さんがたまに作業していた。そのお父さんは枇杷の樹を手入れしていた。6月の末に枝を落とすとき、母が来ていて、橙色の実をもらって喜んだことがあった。

そして、最後に残っていたのがおばあさんがひとりで住む平屋の家。素敵な木の枠の丸窓があった。裏の部分や塀などは錆びたトタンが張ってあった。そのトタンの、水色のペンキと錆の赤茶色の華やかさを忘れない。

夏のお盆には、ここに住む小さなおばあさんが、玄関の前で、迎え火と送り火を焚いていた。懐かしい匂いがした。おばあさんは野良猫をかわいがってくれていた。

雪の日には、私はそこの錆びたトタンの塀の中の、柿や楓の樹の枝に積もった雪の造形を見ていた。

私の大好きだった大切な片隅の風景。

目白 下落合 おとめ山公園ホタル / 『北中夜市』

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7月20日

高円寺の北中通りでやっている夜市に出かけたのだが、5時半頃に家を出たので、ちょうどぽつぽつと雨が降り出した。

北中通りに着いた頃には、だいぶ強く降っていた。北中通りの奥のほう、「猫の額」(猫雑貨のお店)の前では、雨にもめげず、マイクでヴォイスパフォーマンス(ノイズ系)をやっている人がいたが、露店の人たちは急いで商品を片づけていた。

夜店の賑わいを写真に撮ろうと思っていたが、今回は断念。5月から10月の第3日曜日にやっているそうなので、また来ようと思う。

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北中通りには色と線が面白いごちゃっとした場所が残っている。

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その後、雷とともに、雨が激しくなり、傘を持っていてもずぶ濡れになりそうだったので、とりあえず近くのマンションの軒先に避難した。道行く人もそこに避難して来て10人くらいで豪雨を見つめていた。

はちきれそうな体躯の小型犬を連れた人も、犬のほうが雨を避けて人を引っ張るようにして、私のすぐ前に入って来た。犬が濡れない位置で雨をじーっと見つめている姿がかわいかった。

犬はよっぽど濡れるのが嫌のようで、「もうそろそろ行こうか」とリードを引く人に抵抗して、後ろに体重をかけてがんばっていた。犬がふと振り返って私のほうに来たので、頭をなでた。ぷるぷるぷるっと体を震わせて雨の粒を激しく周りにばらまいたので笑ってしまった。

雨がなかなかおとなしくならず、古本屋で本を物色した。夢野久作の歌集が面白かった。

7時くらいにセンプレピッツァ(激安ピザ屋さん)にいたら、幾度も空が裂けるような雷の音がして、ほかのお客も「近くに落ちたんじゃないか!?」と不安そうだった。

きょう露店と一緒に撮影したかった場所。これは先日16日に撮影した写真。(私は美容室に行くことはないのだが)このコティー美容室の内装が気になる。

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7月19日

もう何年も行っていなかった新宿区おとめ山公園のホタル観賞の夕べに、友人と行ってみることにした。

公園は高田馬場から近いのだが、昔歩いた不思議な建物がたくさんあった瀟洒な道の記憶を辿りたくて、目白から歩いた。

目白通りから左折したところ、緑の陰にすばらしい洋館があった記憶を確かめたかったのだが、その建物はなくなり、すっかり様がわりしていたので、すごくがっかりした。調べるとどうやらウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で、明治初期か大正末期に建てられた木造2階建ての日本聖書神学校の建物だったようだ。2006年になくなってしまったらしい。(今は新しい建物になっている。)

その道を少し進むとキクチ科学研究所という白い塀に囲まれた謎めいた建物がある。

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そして大きなお屋敷が立ち並ぶ道を通っておとめ山公園へ。

おとめ山公園はハケ(落合崖線)の斜面緑地だ。私が好きな国分寺崖線のハケの道と同じく、新宿区にも泉が湧いている地形があって嬉しい。国分寺のお鷹の道でもホタルが見られるらしいが、私はまだ見たことがない。

6時から整理券を配ると言われたので、それまで周辺を散歩。

近くの神社の階段の横に、空き地に続く階段が残っていて、その場所の記憶がとても強烈に残っていた。なんと10年以上前に見たその場所は、そのまま残っていたので、個人的にはとても感動した。

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神社に上る階段の横に空き地に続くふたつの階段(この下の写真の右側のふたつ)があり、さらに左側にもこの写真に写らなかった社務所に上る階段がある。

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おとめ山公園は拡張中で、昨年開園したばかりの地区にミゾハギ(溝萩)、ナデシコ(撫子、瞿麦)、オミナエシ(女郎花)やキキョウ(桔梗)が咲いていた。

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オミナエシは晩夏から秋に咲くはずなのだが、秋の七草がもう満開だった。

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英名でピンクと言われるナデシコの澄んだ薄紅色を画像で出そうとすると、草の緑がオレンジっぽくなってしまう。キキョウはきれいな薄紫だったが、画像では青味しか出ない。
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一本だけ咲いていたヒメユリ。
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おとめ山公園の池で元気に泳ぎ回るカルガモの赤ちゃんがとてもかわいかった。大きなカメもたくさんいて、見ていたら食べ物をもらおうと泳いで寄ってくるくらい慣れていた。
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5時30分くらいから長い行列に並んだ。10年くらい前と較べて、見に来る人の数が何倍にも増えたような気がする。周りではじっとしていられない小さい子供たちがたいへんそうだった。おとめ山の大きな木を眺めながら、ここの樹木は守られてよかったなあ、と思う。

並びながら友が我慢できずにコンビニで買ったおにぎりをぱくついていたら、落ち着かなさそうにしていた4才くらいの男の子が寄ってきて、友の真ん前に立ち、じ~っと友のおにぎりを見つめだした。それで友が動揺しているのでおかしかった。

6時に7時ー7時30分入場の整理券をもらってから、雨が強く降り出したので坂を下ってコンビニのイートインで休んだ。靴の底が減ってきているせいか、ちょっと歩くとやたらに足の裏と腰が痛い。その後も6時40分くらいから再び入場の行列に並んだ頃にはもうだいぶ暗くなっていた。

雨の中、そしてついに入場。10年以上前に来たときは、まず暗い池の周りをぞろぞろ行列しながらゆっくり進んで、ホタル舎から舞い逃げたホタルが草の上でふわ~っと光るのを見ることができた。そして最後にホタル舎の中に入れてもらって盛り上がって終わったのだが、今回は入場してすぐホタル舎にはいって終わりだった。

ホタル舎の中にいるのは2分くらいである。そこを出たあと、中高生のおとめ山の生物と地学の研究発表のブースと、カワニナの育舎を見ることができたが、ホタルを見られた時間が短かったので淋しかった。

友と高田馬場で夕食。4時に新宿で待ち合わせてから、7時に実際ホタルを見た時間は2分くらいなのだが、友とずっとしゃべっていることが楽しくて記憶に残る。最近よく話すのは詩について。

7月18日

母に会いに行く。きょうは起きていて夕食完食。加えて水羊羹。

アルバムを開き「この人わかる?」と父の写真を見せて「悪い人なんだけどね~。」と言ったら、母がおかしそうに笑ったので良かった。

中野で降りて古い(60年代の)まんがを買う。

7月14日

ここ2週間くらい自律神経を整える漢方薬を飲んでいたせいか、胃が痛くなってしまった。仕事をしなければと焦っていたら、ついに嘔吐。胃酸で喉がヒリヒリし、頭痛がひどく、1日寝込んだ。

7月13日

友とデルソルで食事。最近は体調が悪いので外で食事してもビールを飲めない。それでも少しずつ、少しずつ一か月前よりは快方に向かっているような気がする。

食事のあと、夕焼けのほうに向かって散歩した。何年も前に、百合をたくさん育てている家があって「わあ、きれい!」と声を出してしまったら、そのお宅の2階の窓から「百合、好き?」と声をかけられて驚いたたことがあった。あの家はどこだったろう。

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7月8日

このところずうっと精神的に疲れてしまい、いろんなことすべてが悲観的な傾向を帯びて捉えられていたのだが、メールを出しても返事をもらえなかった(知人であり、たぶん友人と言ってもいいと思える)人に、フェイスブックから連絡したら返事をもらえた。

メールの返事が来ない、わけはわからないけど無視されているという絶望から、「職場のサーバの不具合で、迷惑メールに振り分けられていた」と聞いて、ほっと救われた。そしていただいたメールの文章はとても誠実で好意的だった。

それでも、わ~、よかった!とぱあっと明るくなれないのは、なんだか自分の心がそうとう参っているせいだとわかる。

7月7日

数年ぶりに歯が痛み、歯科へ。

痛いところ(奥歯)のレントゲンを撮るため板状のフィルムを口の奥に入れると何度やってもおえっとなってしまい、顔が涙でぐしょぐしょになった。歯全体を撮りますか?と言われたが歯全体を撮ると4倍の被曝になると聞き、がんばってフィルムを入れます、と言った。結局指で入れないで器具で押さえて撮った。

画像診断の結果、昔被せた奥歯のブリッジにひびがはいって炎症を起こしているとのこと。口を閉じないで、と言われながらブリッジを切断して取る。唾液を吸引する器械を奥に入れられるとまたおえっとなる。

7月4日

ケアマネさんから父の退院後6日目の状況報告のメールをもらう。

酸素吸入の会社からレンタルしたのに本人は吸入器を使っていない、薬も飲んでいない、甘いものを食べている、というのは予想通りだが。

私がとにかく頭にきてしまったのは、きのう介護ヘルパーさんにタバコ購入を頼み、断られたら夕方自分で買いに行って吸っているということだ。

父はあんなに死にそうになって皆に迷惑かけたのに、6月29日に退院して4日後にはもうたばこを吸っている!!!!たばこの味は、「天国だった」と言ったそうだ!!!!

母が寝ていた部屋までヤニだらけにされるのが嫌で、ものすごくイライラしてしまった。

入院後に私が止めて清算したスポーツ新聞(競馬のため)をまたとっている。そのほか、とてもここには書けないような不快なことも・・・

過去の父にやられたことのトラウマがよみがえり、本当にストレスを感じた。私の場合、ストレスがもろに身体の痛みとして出てくる。ここひと月ほど首が鞭打ちのように固まって横を向けない。首と肩と背中と頭(後頭部と脳天)が痛い。

6月28日

神奈川県立近代美術館の水沢勉さんよりご寄稿いただけるとのお返事をいただいたと「あんちりおん」編集部からメールが来る。ほかにも早くも6月20日にお返事をいただいた私の尊敬する才溢れる文学者のかたがたがいる。これは、本当に予想外のことだ。

最初に「あんちりおん」次号の企画を聞いたとき、そんなの絶対無理でしょ、ご寄稿依頼しても書いてくれるわけないから、余計傷つくだけ、って思ったのだ。そんな依頼をするだけで恥ずかしいと。

良いお返事をいただいても、ものすごく幸せなことなのに素直に信じられない自分がいる。

父の件で一気に悲観にとりつかれ、よい知らせを聞いても、それが現実とは思えないような、へんな感じ。

コロのけが / LE DE GIVENCHY

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7月31日(木)

34度。

新宿でセール(3240円均一)のスニーカーを買う。3Eで24~24.5のサイズに足が慣れてしまっているので、なかなか合うものが見つからなくて苦労した。

夕方、H.Tさんのお見舞いに井荻へ。初めて降りる駅。

陽が落ちても息が詰まるような蒸し暑さ。

大きな通りを延々歩いていたら、途中で素敵に絵になる家を見つけた。二階のドアに惹きつけられた。

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7月29日(火)

3時すぎ、新宿の無農薬ベジタリアンのお店できょう初めての食事。
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おかずは全部おいしいが、写真真ん中のゴーヤとズッキーニのみそ炒めが特においしかった。

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友人と仕事の話をしたあと、デパートにスニーカーを見に行く。今履いているものの底がすり減っていて足の裏が痛くてたまらないので。捜したが今履いているものと似たような黒のスニーカーはどこにもなかった。

金柑の花がまた枯れている。6月の終わりに最初に咲いた1回目の花の実がひとつ、はや金色に熟している。ほかに2回目の花の実なのか青い小さな実がいくつか。

7月28日(月)

歯科。痛みがおさまらないのでかたどり延期。

コロ、動物病院から帰還。手術したら術後の消毒などのケアが必要で、傷口を舐めないためのエリザベスカラーも外に出て歩き廻る猫には危険なので使用できないとのことで、結局、手術できなかった。本日3000円プラスで、2日で計15500円だったそう。

私になついてはいないが、コロが心配だ。外を歩いていて狭い場所で引っかかってしまった傷ではないかということ。

コロの食欲は落ちていないそうなので良かった。

7月27日(日)

35度。夕方から激しい雷雨。

父の猫コロが怪我をしているとの連絡が来、無責任な父と体調不良の私に変わって、私の友人が雷雨の中、コロを動物病院に連れて行ってくれた。

コロは野良猫だったのを父が拾ったのだが、けっこう大きくなってから拾ったので私にも体を触らせない。鋭い爪で引っ掻くので危険な猫だ。

そんな野性的なコロをなぜ友人がキャリーに入れて運ぶことができるのかというと、6月に父が入院しているあいだ、友人がコロの食事をあげていてくれたからだ。私が行っても引っ掻かれるだけ、ということで、今回も友人が行ってくれた。

一泊して傷に薬を塗ってもらい、抗生物質の注射と、ノミの滴下薬、爪切り。医師が不在だったので、その後手術したら25000円との見積もりをもらったが、本日払ったのはとりあえず12500円。

7月26日(土)

35度。

夕方、近所のアンティーク屋さんにふらっと立ち寄ってみたら、なんと、ずっと捜していて、もう絶対めぐり会えないだろうと諦めていた廃番になった昔の香水(オーデトワレ)があったので驚いた。

ル・ド・ジバンシィLE DE GIVENCHYという香水(オーデトワレ)。枯れたブラックパロットチューリップとちゃびの抜けた髭と。一緒に撮影。

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調べてみると、LE DE GIVENCHYは、1957年に発売された古典的な花の香りで、トップノートはベルガモット、マンダリン、コリアンダー、ヒートノート(ミドルノート?)はジャスミン、バラ、カーネーション、ライラック、ユリ、スズランを含んだ繊細な花の香り、ベースノートはアンバーとモスで甘くした柔らかなサンダルウッド、グアヤウッド、残り香は甘くパウダリー・・・・(のような香り。)

私が大好きなアールグレイ紅茶とベルガモットが共通している。

家にいくつかの香水の見本の古い瓶があり、それは70年代に母が香水の売り場で働いていた時にいくつかの香水の見本をもっらてきた時のものだ。まだ香水に興味があるような歳ではなかった幼い私が、もっとも惹かれたのは、定番だがディオールのディオリッシモと、シャネルの19番、サンローランのリブ・ゴーシュ(今は廃番)、それとジバンシィのル・ド・ジバンシィだった。

ディオリッシモは百合系(ユリ、スズラン)の花の香り、リブ・ゴーシュはイランイランや薔薇の花の香り、シャネルの19番は草の香りの印象だったのだけれど、このル・ド・ジバンシィは、なんの花の香りといいにくい不思議な香りだ。、

鬱蒼とした暗緑色の森の中の花々のような、甘ったるさが残らないなんとも神秘的な落ち着く香り。

昔、子供の頃、ル・ド・ジバンシィの香りを嗅ぐと、未知への期待と不安で、めまいがするような気がした。香りはもっとも原始的な力で時の記憶を戻してしまう。

このル・ド・ジバンシィは、つけないでもっぱら嗅ぐだけ。

7月25日(金)

東京36度。

ここ一週間くらい、胃酸で喉が焼けそう。首も頭も痛いし、吐き気がして、活動的になれない。

7月24日(木)

今まで行ったことのない区の健康診断の予約をとる。

今現在かかっている癌のマーカーしか定期検査しておらず、ほかの部分が癌になっていない保証はまったくないのだが、なんとなく身体全体の健康診断は受けないまま何年も過ぎている。最近、すごく疲れやすく不調なので診断を受けることにした。

もしかして、さらにほかの病気、たとえば婦人科系の癌だったらどうしよう・・・・。そんな不安の中で、癌経験者の闘病記のブログをいくつか読んでみた。

人気の高いブログの人の文章は、皆、素晴らしい。時に笑いもまじえながら、治療の具体的な方法や、データなど、本当に詳細に書いてくれている。

そういうまったく他人事ではない、切羽詰まった、これ以上現実的な苦しみはないぎりぎりのところで書かれた文章、しかも苦しみとの闘い以上に、個の生の魅力に満ちた文章を読むと、「文学」っていったいなんなんだろう、と思ってしまう。

無料で読めるブログがたくさんあるのに、売り物として本になっているものには、もっとつまらないものがごまんとある。買ったり借りたりして読んでみた小説で、途中まで読んで耐えきれなくなってやめてしまったものはたくさんある。

「詩」も、生と死に密接に関わっているものだと思っていたのだが、とてもそう思えないものがたくさんある。

現代そのものなのかもしれないが、なにも「感じない」ことを延々述べている人も多い。何も「感じていない」のだが、何を書いても「私を見て。私を認めて。私を愛して。」の一点張りの人。

自我の維持と拡大以外に関心のない、生命にはなんの関心ない「病」なのだろうか。まわりには苦しんでいる人や動物がいっぱいいるのに、「私はこんなにすごい」と威嚇してくる人ほど気持ち悪いものはない。

7月23日(水)

体調はあいかわらず悪い。ずっと微熱がある感じで脳天がズキズキする。

金柑の花が、今年3回目か4回目かの満開。7月14日くらいにも満開で、その後、4、5日で枯れた。

健康診断 癌健診

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8月7日

気温34度。

きょうは総合健診と胃癌の検査。今まで総合的な健康診断を受けたことがなかったので興味もあるが、また病気が見つかったら嫌だなあと思う。

9時に家を出たら、地下鉄のホームで、昔、西新宿に住んでいた母の友人のEさんに声をかけられた。Eさんは90歳近いと思えないほどしっかりしていて、私なんかよりずっと元気。昔から知っている人が変わらず元気でいてくれることが本当に嬉しい。今度家に遊びに来て、と言われる。

9時50分頃クリニック着。検査着に着替えて、まずは血圧測定。135-70。(以前100-60くらいだったのだが上がっている。走ってきたせいか。)

次に身長体重測定。162.2cm。46kg。

肺のレントゲンは定期的に受けているのでいいです、とパスした。

眼底撮影。片目ずつ撮影するが、両目で見て、遠くの緑の夕日みたい、と思った瞬間に終わり。

初体験の心電図。身体につけるパッドがとても冷やっこかった。

血液検査。肝炎検査も含めて5本採取。ここのクリニックは皆、やりかたがとても丁寧で親切。

それから診察室へ。気になるところは、と言われ「胃酸過多で苦しいです。ピロリ菌の除菌をしたほうがいいですか?」と聞いたら、胃酸過多や逆流性胃腸炎だからと言ってピロリ菌がいるとは限らないと言われた。

最後に胃のレントゲン。10年以上前にやったきり。「バリウムを飲んで具合悪くなったことはありませんか?」と言われ、「昔、胃の調子が悪い時にバリウムを吐いてしまったことがあります。」と答えた。私の場合、歯科でもすぐにオエッと喉が反応してしまうので困っている。

炭酸の顆粒を少量の水で飲み、絶対にげっぷを出さないように我慢してくださいと言われる。それから「バリウムを2回ずつ続けて飲んでください」と言われ、飲みだしたのだが、やはり胃と喉のあたりがむかむかして、口に入れたバリウムを飲み込むことができない。

「味わわないで。すぐに飲んで。」と言われるが、喉を動かしたらオエッともどしてしまいそうなのを必死で耐えているので、どうにも動けない。いろんな方向を向くように指示されながら機械が回転。涙でぐしょぐしょになりながら、なんとか最後までがんばって飲んだ。途中、少し胃がしぼんできたと言われ、2回目の炭酸を飲まされた。

「たいへんでしたね。」と言われ終了。全部の検査で2時間弱。

終了後、食事に行ったが食欲がまったくない。ただ咽喉の乾きの感覚は急激に出てきてパスチャライズコーヒー牛乳を2本飲んだ。そのあとも冷たい緑茶を。

・・・・・・・

帰宅してメールを見るとカルヤニ(Horst Janssenのお孫さん)からの連絡があった。

8月6日

36度。原爆の日。

明日の検査のため、きょうの夜9時以降は絶食。明日は朝6時以降は水もだめということ。

猛暑なのに明日水を飲まないで検査終了まで我慢できるのか不安。真夜中も暑くてなかなか眠れない。

8月5日

気温36度。呼吸が苦しいほど暑い日。健康診断のため、新宿のクリニックへ。

1時40分ごろ受付。きょうは婦人科系の検査。

まず乳癌の触診。私の場合、乳腺の関係か、触診のとき、いつも少し痛い。

次に子宮頸癌健診。たいしたことではないはずだが、いつもとても怖い。診察台に乗って、と言われると緊張ですごく胸がどきどきしてくる。

診察台に乗るときに、水の中に入った器具が見えたので、なるほどこういうものを使っているのかと認識できた。それでカーテンの向こうで何をされているのかわからなくてただ痛いのよりも、少し安心できた。

過去、医師によってはすごく痛かったのだけど、今回は若い女性の医師で、そんなに痛くないほうだった。それでも「いたたた・・・」と思わず声が出てしまい、「息を吐いて、楽にして。だいじょうぶですか?気分悪くないですか・」と言われた。しかし一瞬で終わった。

帰宅してから調べてみると、クスコというインカ帝国の首都のような名前の器具で(この器具の名前は外科医の名)、サイズもいろいろあり、やはり扱う医師によって痛かったり、痛くなかったりらしい。

触診も、昔、子宮内膜症がひどかったときは手でお腹を押されると、ぎゃっと涙がほとばしるほど痛かったのだが、今は普通に押されている感覚。

次に初体験のマンモグラフィー。呼ばれて撮影室にはいってから「どうですか?説明を読んでだいたい理解できましたか?」と言われ、「えっ?説明書もらってません。」と言ったら紙を渡されて、びっくり。

上下にパンケーキみたいに潰されているおっぱいの写真を見て、絶対無理と思った。乳房を挟むというのは聞いていたのだが、こんなにぺったんこに押しつぶすとは想像していなかった。

「あの胸がないんで挟めないと思うんですけど。」と言ったら「きょうはこっちでやりますからだいじょうぶ。」と言われ、縦にはさむ機械へ。

機械の角に脇をつけて、無理やり引っぱるようにして胸の肉をはさみ、厚さ2cmくらいになるまで圧迫。「いたたた・・・」と言いながらも、なんだかおかしくなって笑ってしまった。

8月3日

気温36度。

コロのけがはよくなってきたそうだ。縫わないでも抗生物質の注射が効いてよかった。この暑さで傷がうんだりしないかと心配していた。

鶏頭 ソルダム / シモンの夏

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8月10日

最近描いた鶏頭の素描。ケイトウの英名はCockscombで、やっぱり雄鶏のとさか。

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ケイトウは、茎は直立していてあまり絵にならないのだが、その分花と葉がたっぷりと奇妙で面白味がある。

オレンジやピンクの綺麗な色のは、葉の柄のついているところから出ている鮮やかな花の断片のようなもの、深い紅色のは葉の中で混じっている紅色と緑の諧調を追うのが面白い。

いろんなかたちのケイトウを素描していきたい。

・・・・・・・・

60年代~70年代初頭のまんがに好きな作品がたくさんあるが、最近、ずっと昔から気になっていた作品を読むことができた。

水野英子の『シモンの夏』(1970)。

私が小学校の低学年の時に、知り合いのお姉さんの家で前半まで読ませてもらって、何がかいてあるのかよく理解できなかったのだが、強烈な印象を受け、その後何十年も、あれはなんだったのだろう、と気になっていた作品。

絵を描く若い女性が主人公で、夏に海辺でシモンという少年に出会う。シモンはなぜかその女性のことを「あなたはちっともきれいじゃない」と言う。

シモンは女性の恋人である老芸術家の顔を腐った木切れでつくり、腐った魚の骨や海藻できたならしいオブジェをつくって女性に「それがあなただよ!」と叫ぶところで前半終わり。

画面に大きく描かれたそのオブジェの印象は凄絶で、幼い私の眼の記憶には、それが海辺にうちあげられた腐ったものすべてを集めてつくった、どす黒く臭う恐ろしいものとして残った。そしてシモンという少年がどうしてそんなに猛然と女性を批判しているのか、それを知りたい、この続きを読みたいという気持ちがずっと心に残った。

つい最近、『シモンの夏』がサンコミックスの『ファイヤー!』第4巻の巻末に収録されていることを知って購入した。『ファイヤー!』は小学館文庫版を持っていたのでサンコミのほうを持っていなかった。

さて、今、この『シモンの夏』を通して読むと、すごい作品だと思う。この話のテーマは「芸術の虚偽」だからだ。

主人公24才のディアーヌは、多くのアーティストと競い、ニースの海岸に立つ総合センターをかざる大壁画を描く仕事を勝ち取った。「この壁画をだれに描かせるかは 世界中をわかせたものだった あらゆる 有名アーティストの名があげられ 選択がくりかえされ その売りこみも いちじは気違いじみていたものだ」。ディアーヌについて「その破天荒な創作態度は 世のアーティストたちを瞠目せしめ 形式にとらわれない自由さは 羨望の的となった 若さなのだとだれもがいった」

ディアーヌは大人数のスタッフを指揮し、巨大壁画「1000光年の神々」の制作を始める。それを崖の上から見て、シモンは「あの絵はまるで見栄のかたまりだな 自分の力をいっしょうけんめい見せつけようとしている 自分は こんな仕事が できるんだって どうだ どうだってね だれの絵か知らないけど……疲れるよ そう思わない?」とディアーヌ本人に向かってつぶやく。ディアーヌが「……わたしの絵よ」と言うと、シモンは「そう!? そうなのか! そういえばあなたに似てる」と言う。

ディアーヌの住まいを見てもシモンは「これがあなたの家? やっぱりあなたに似てるんだなあ でっかくて… がんばってるくせに どこか空しくて…」と言う。そしてディアーヌが10才の頃に描いたという絵を見つけて「ああ これはいいな! かわいいよ わすれな草だね だんだん空しくなってきてるんだね 今の絵は…」と言う。

それから例のどろどろに腐った海の漂流物のオブジェをディアーヌのアトリエにつくって「わかった? ディアーヌ それがあなただよ あなたのなかは虚栄でいっぱいだ いいかえればなんにもないんだ あなたはウソつきなんだよ 自分で気がついてないだけさ!」と叫ぶ。

ディアーヌは激昂するがシモンを追い出すことができず、シモンの言葉について考えるようになる。そして大壁画を仕上げる手が止まってしまう。

最後にディアーヌはシモンの言ったとおり、自分の絵は「虚栄のかたまりでしかない ひじを張った はったり屋のからっぽ」「なぜみなあの絵をほめるのよ なぜだれも気付かないの」「ビエンナーレも美術館も消えっちまえ!」と叫んで壁画を破壊しようとするが「壁画は夜空に黒ぐろとそびえたち わたしの小さな力で破壊することはすでに不可能だった」

そしてディアーヌは自分が描きためてきた絵と家に火を放ち、旅に出た。

物語の冒頭で、ディアーヌは教会の彩色をたのまれたときにペンキを建物にぶちまけて「わたしにとって神は最高の偽善者にすぎない」と言ったり、博覧会の記念碑をワラでつくって「記念碑ってのはなに? たしかなものはなにひとつないのになんとかしてそれにしがみつこうとする人間のおろかさよ」と言ったりしている。

しかし、そんな自分が「1000光年の神々」というただ威圧的なだけの巨大壁画を制作していることの矛盾には気づかない。

世俗的な権威でしかないにしろ、自分を大きな権威と同一視し、自分が力を持ち、自由にふるまっているという錯覚と優越感が(地位を保つための役割分担としての範囲で)、「アート」と呼ばれる大量のゴミを生んでいる。

この頃、水野英子はロックをテーマにしたまんが『ファイアー!』(1969~1971)を描いていた。少女が憧れるかっこいいロックスターを甘い夢のように描くのではなく、体制に反抗するものであるロックが、やがて体制側に打ちのめされ、主人公は純粋さを貫き通すがゆえに疲弊し、最後は正気を失ってしまうというという話。

水野英子のすごいところは、まんがというジャンルのなかで、人気ロックスターや有名アーティストにのぼりつめるストーリーを夢物語としてではなく、ロックやアートの意味や価値、腐敗した権威や経済システムの虚偽を問う話として描いたところだ。しかもすでに1970年に。

こういうまんがをのせていた当時の「週刊セブンティーン」の編集さんもすごいと思う。

この時代は反体制を貫き通すことがひとつの価値に成り得た。しかし今現在は、反体制や反権威などの立ち位置をとっても、それがひとつのスタイルにしかならず、そのまま体制側に吸収されてしまう。どんなに先鋭であろうとしても、闘う場所がない。

そして「アート」において、反体制を気どった「にせの問題提起」が、空しい商売をつくる。そこが問題なのだと思う。

60年代、70年代に活躍した私の好きな漫画家たち、岡田史子、水野英子、あすなひろし、矢代まさこ、北島洋子、上村一夫、宮谷一彦・・・、私が反応したのは、まずその「絵」、「線」の妙だった。

モノトーンの世界で、皆、変幻する線の表情から生まれる世界の深みがすごい。

8月9日(土)

母に会いにKへ。

母は37.4度の熱だった。8月5日(火)から熱が出て、高い時で37.5度で、下がった時もあったらしいが、微熱が出る繰り返し。

今までもこもり熱は毎年あったので、大事はないと思うが心配だ。

夕食はなんとか完食。加えて「極みプリン」を食べさせる。熱があるので、なるべく水分を摂らせたかったのだが、お茶は飲みきれなかった。

Oさんが、「3日の夕涼み会の時はすごく元気で、立ち上がりそうなくらいだったんですよ。」と言ってくれた。盆踊りや花火を見たそうだ。

私は胃が痛くて具合が悪かったせいもあるのだが、本当にうっかり3日の夕涼み会に参加するのを忘れてしまっていて、とても後悔。

部屋の整理 

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8月24日

夜7時に、ついにインターホンの工事終わり。

10日間、毎日、朝まで片づけて、首と肩の筋肉痛がひどい。中腰のまま何時間もいたので腰の神経痛も。

会話のメモなど、心に残ったことのメモが多すぎる。重要なメモはノートに貼るなどしないといけないと思う。

6~7つある本棚に入りきらない本が、1m以上の山に積んで6つくらいある。

スケッチブックの重いのが数十冊・・・小さいのもいっぱい。

床や家具のほこりを拭き掃除するのに、私は肌が弱くて、よく売られているクリーナーなどではかぶれてしまうので、「アクアエクス」(電解アルカリ水)、ダニクリン(殺虫剤を含まないダニ忌避剤)、布類にはピュアイズム(ダニよけハウスダスト不活性化ミスト)を使った。

手の皮膚がほこりに触れると、すごく痛くなるので、固く絞った綿のモップの頭部分を手に持って拭いてほこりを取ってからスプレーをかけながらティッシュでもう一度拭いた。

8月23日

H・Tさんのお通夜に行く。喪服で外に出ると、高円寺は阿波踊りの初日で、熱気に溢れていた。

江古田斎場。大江戸線の新江古田駅から西武線の江古田駅に行くあいだ、いくつか懐かしいような緑の植木鉢が並んだ細い路地を見た。おばあさんが植木に水をやっていた。陽が柔らかくなってきた5時前だった。

斎場の手前に欅や銀杏の古木に囲まれた古い神社があった。ミンミンゼミとアブラゼミとツクツクボウシが競うように鳴いていた。

式の後、皆で飾られていたアルバムを見ていた。若い頃のTさんは、昔の映画スターのような背の高い美男だった。

帰り道、来たのと一本ずれた道を西武線へと歩いたら、昭和っぽい喫茶店や床屋さんが何軒かあった。江古田はあまり昔と変わっていないのかなと思った。

行きに見た植木が奥までずっと並んだ細い路地の入口に、オオマツヨイグサ(大待宵草)が8cmくらいもある花を開いているのが闇の中に明るんで見えた。

8月19日

H・Tさんが亡くなった知らせを受け、驚く。7月31日に施設にお見舞いに行ったばかりで、その時はとても頭が明晰で、そんなにお悪いとは思えなかった。

8月18日

近所の金柑が、今年5回か6回目の開花。

すでに青い実が茎の生っているたくさんの枝の先端のほうに、ちらちらと一輪か2輪ずつ咲いている。

よく見ると、完全に茎の末端(茎が新しく伸びた部分)に咲いているわけではなく、末端の花はもう枯れて緑の子房が膨らんでいて、2番目や3番目の花が今開花していたりする。

前回は8月8日くらいに2つの枝だけに7、8輪ずつまとまって開花して、3,4日で枯れた。

樹全体を見ると、実ができているのは上のほうの枝のみで、花が咲いて散っても結実できなかったのも多い。

そして葉も花もついていない枝だけの部分が気になって、どこかにキアゲハの幼虫がいないかと捜しているのだが、今年はほとんと見られない。

8月16日

工事をする部屋をすっきりさせるために、本や写真の山を大移動する。

膨大な写真と書類の分類がとにかく大変。

普段使わない筋肉がびりびりする。ついでに家具も移動。移動したあとの清掃。毎日朝5時まで。この作業は25日まで続きそうだ。

8月14日

締め切りの原稿を出しに行く。

帰り道、駅の裏側に繁茂する羽衣ジャスミンといい感じに錆びた建物を見つけた。

帰宅したら、郵便受けに大家さんからの封筒がはいっていてどきどきする。

インターホンを新しくする工事のお知らせ。工事最終日の24日希望と書いて出した。部屋中の片づけをしなければならない。


変化朝顔展示会

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8月30日

夜から朝まで雨模様だったが、楽しみにしていた日比谷公園の「変化朝顔展示会」に出かけた。展示は正午まで。

昔から変化朝顔にとても興味があった。国立科学博物館に行った時に資料を購入したり、国立歴史民俗博物館から資料を取り寄せたりしていたが、本物を実際に見るのは初めて。

初めは『朝顔三十六花撰』(服部雪斎画)、『三都一朝』(田崎草雲画)などの変化朝顔を描いた植物画(版画)を見て、とりこになったのだが、実際に見た変化朝顔は、とても妖艶で摩訶不思議なのと同時に華奢で儚い魅惑があった。

(写真はすべてクリックすると大きくなります)

獅子牡丹

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風鈴獅子
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管弁獅子牡丹
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これもたぶん管弁獅子牡丹
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名札はないが「渦小人」(うずこびと)と説明の人が言っていた青紫の小さな朝顔。購入して帰った『変化朝顔図鑑』(仁田坂英二著)によると、「渦小人」とは「渦」と「桔梗渦」の複合した系統で、小さく縮こまって厚味を増した葉質は「顰」(しかみ)と呼ばれるらしい。

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白と濃紫の風鈴獅子咲き牡丹(?たぶん・・・)

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采咲

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糸柳牡丹

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茎が帯化した変化朝顔

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これも茎の帯化した変化朝顔

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展示場の屋外で雨に打たれてしまっていた牡丹咲の朝顔。

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これも屋外で濡れていた黒い花色の変化朝顔の莟。

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昼前に展示場を出てから日比谷公園内を散歩。昼近くになると陽射しが戻ってきて急に暑くなった。

夏の終わりの頭を垂れた大きな向日葵がいっぱい並んでいる小道があった。

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懐かしい感じの売店。屋根の上の雀たちがかわいい。いくつかある売店のうち、こちらは川原売店。

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「いらせられませ楽しいルーム 昭和4年から時は流れ今も尚、豊かな記憶がここにある  〈見学無料〉」と黒板に書かれている日比谷公会堂アーカイブカフェーの入り口。

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屋根が湾曲している不思議な建物があった。窓の鉄格子の隙間に軍手が押し込んである。近くに行って中を覗いてみると、地下に行く階段があった。

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日比谷グリーンサロン前の花壇。シオカラトンボを撮ろうとしたがすばやく逃げて撮れなかった。メニューを見ると珈琲300円と書いてある。日比谷公園の中にいくつかある食事処の中で、グリーンサロンが一番安いみたい。

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ちょっと散歩していただけで7か所くらい蚊にさされた。代々木公園の蚊のデング熱が話題になっているので虫よけスプレーを忘れたことを反省。

8月29日

26度。きょうもちらちら雨。

ここ3日くらい秋のように涼しいのに、今頃夏バテなのか、体重が44.5kgになっている。8月5日の健康診断の日には46kgだったのに。6月の初めに箱根に行った夜、温泉で計った時は48kgくらいだったような気がする。

頭の打撲はまだ痛く、ずっとではないが冷やしている。

8月28日

23度。肌寒いくらい。ちらちらと雨。

きのうぶつけた後頭部が、まだ相当痛い。保冷剤で冷やしている。

4時30分頃家を出て、母の施設へ。

中野と東中野のあいだ、桜山と呼ばれた染井吉野の土手の下、線路脇にずっとオシロイバナ(白粉花)が咲いている。ここの群れは皆、紅と黄色の花が一株の中に混じっていて、白を含まない。最近、白と紅の絞りのオシロイバナの花を撮りたくて散策している。

施設の横で、白と赤紫の百日紅が散っていた。梔子の花は枯れて茶色く硬くなったまま、青々とした葉の中にくっついていた。昼顔が雨の雫をためていた。

母はきょうは元気だったとOさんに言われて嬉しかった。しかし夕食を食べる時になって傾眠になってしまった。それでもなんとかがんばって食べさせて、お茶を半分残しただけで完食。「極みプリン」も完食。きょうの献立は生姜風味のあんかけ豆腐、緑の野菜(ムース)、サツマイモ(ムース)のあんこがけ。

中野の操車場が薄闇の中に明るんでいて、劇場のように見えた。線路には細い夏草が茂っていた。

8月27日

23度。雨。

洗面所の床に置いてあったものをしゃがんで取るとき、誤ってやや右の後頭部をステンレスのタオルかけの角にぶつけてしまった。

そうとう痛かったので、その後は出かけるのをやめて安静にして寝ていた。

8月26日

27度。

区の健康診断の結果を見て驚いた。

なんとマンモグラフィーがひっかかっていた。要再検査。

針を刺す細胞診をやると言われたらどうしよう、と心配だ。

和田堀池 夏の終わり / ちゃび

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9月2日

朝、神奈川県立近代美術館館長、水沢勉さんよりメールをいただいて驚いた。社交辞令だと思っていたのだが、本当に私の仕事場(ただの住居)に来られるみたいだ。

ただバテてばかりの猛暑が終わり、9月からは忙しくなりそうだ。

きょうは、きのう予約をしていたのに行くのを忘れてしまった歯医者に行き、ブリッジのかたどり。

今年6回目か7回目の金柑の白いつぼみが、はちきれそうにふくらんできていた。

きのうAさんと話してから、ずっと行っていなかった和田堀池の周りが気になって、カメラを持って5時半に家を出た。

白と紅の斑の白粉花(オシロイバナ)。これが変化朝顔なら、白地に紅がしぶきのように散ったものを「吹掛」「吹掛絞」(ふきかけしぼり)というらしい。

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百日紅(サルスベリ)には紅、白、薄紅、紅紫、薄紫、淡薄紫などがあるが、私は紫がかった少し淡い色が一番好きだ。なよやかなレースみたいだな、と思う。

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家から徒歩でちょうど30分くらいで、午後6時頃、汗をかいて和田堀池に着く。

ちゃびを保護した植え込みだったあたりは、今は駐車場になってしまっていた。植え込みのところに住んでいたホームレスの人が、段ボールに入れられて粗大ごみとして不法廃棄されていたちゃびとちゃびの親兄弟を植え込みの中に避難させてくれていたのだが、あのホームレスの人、どうしているだろうか。ろくにお礼も言ってなかったなあ、と申し訳なく思う。ちなみに、ちゃび以外の親子は他の人が引き取った。

武蔵野園の売店は5時までだったのに遅れて行ってしまい、閉まっていた。
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それでも6人の子供たちが元気にやってきて、「カルピスソーダ!カルピスソーダ!」と高い声をあげていたのでその場が華やいだ。

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売店の奥が釣り堀「武蔵野園」

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とりあえず池の周りを一周。鴨さんたちがいっぱい。よく見ると島はふたつある。「ひょうたん池」とも呼ばれているらしい。

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中央池の奥のほう、島のほとりに水鳥の巣らしきものが見える。きょうはカワセミは来ていなかった。

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川岸の薄暗い木立で、金属の細い糸を鳴らすような、素晴らしく大きな声でヒグラシが鳴いていた。すぐ目の前にいるようなのに、蝉の姿は見えなかった。

川のほうが護岸工事中で、鉄のフェンスで川も向こう岸も全然見えない。いつも猫たちがいたAさんのお宅の前のほうもフェンスで囲われていて、残念だがたくさんいたはずの猫に会えなかった。

そういえば池のほとりに「りばあさいど」という食事処がある。500円以下でいろいろ食べられる変わった装飾の店だ。Aさんのお宅が戦前からやっておられたという売店とはここのことだろうか。今度食べに来よう。

和田堀池の周りで猫と撮った写真はたくさんあるが、データ化されていないので、UPできず残念。

これは何年か前の冬、中の島の裸になった樹の美しさに惹かれ和田堀池の前で撮った写真。ななめに傾いでいる白いプラタナス(鈴懸の木)がある。

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猫はいっぱいいた。
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善福寺川緑地沿いのフェンスの中にいる白猫。その頃は、行くとたいてい同じところにいてくれた。会えるたびにとてもほっとしたものだ。

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9月1日

冷たい雨。

3時前に治療院に行ったら待合室にAさんが来ていたので、17年ぶりに少し話した。

Aさんは、善福寺に沿った和田堀公園の中にある和田堀池のほとりにお宅がある方で、その周辺には捨てられた猫たちが何匹もかわいがられて暮らしている。

うちのちゃびは17年前にその近くから拾ってきたので、その頃Aさんとは何度かお話ししていた。Aさんが最近になってご自宅からはけっこう遠いうちの近所の治療院に来られた時は、ああ、あの時の方だ、と驚いた。

和田堀公園は戦前からあり、Aさんのおうちは和田堀公園の中で売店をやっていたそうだ。近くの釣り堀の売店は弟さんがやっているとのこと。あそこの釣り堀は入場したことはないが、とても風情があるところだ。けっこう映画の撮影に使われているそうだ。

17年前、「猫が縁の下をのぞいてはふーって怒ってるからね、なにかいるのかと見たら、タヌキがいたのよ。」と言ってらしたのが記憶にあり、尋ねると、そのタヌキは今も定住しているとのこと。

川の向こう岸に(今は塞がれているが)たくさん防空壕があって、その中にもタヌキが住んでいた。戦争の時は大勢の人が家を焼かれて、その防空壕に住んでいたり、公園にもたくさん住んでいたという。

和田堀は戦前から大きな公園だったと聞いて感慨深かった。

昔はAさんの家の裏側にプールがあって、ウォーターシュートなんかもあったそうだ。

和田堀池の中の島で、15年くらい前、蛍をいっせいに放すイベントがあったことについて聞いたら、あれはどこかの議員さんが票集めのためにやったらしいとのこと。あれきりやってないそうだが、あの島に踏み入れ、身体の周りで飛び交う蛍を見た経験は夢のようだった。

和田堀池にカワセミ(翡翠)が来るのは有名だが、最近はアオサギ(青鷺)が来たそうだ。池だけでなく、隣の釣り堀にも来て魚を食べてしまうので、釣り堀の上にネットを張って魚を守っていたら、なんとネットにアオサギがかかっていたそうだ。逃がしてあげたそうだが、ちょっとかわいそうだ。

8月31日

柘榴の実が色づいてきた。木槿と百日紅はだいぶ萎んできたがまだ咲いている。

青磁色とエメラルドグリーンのペンキと錆の赤茶色が美しい近所の場所。

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羽衣ジャスミンも紫陽花も椿も、葉が青々としている。その後ろの壁には去年の枯れ蔓が残っている。夏の終わり。

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電線の水平と枯れ蔓の乱れた垂直に惹かれた。
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しょっちゅう膝に乗っかってくるちゃび。

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パイルヘアゴムを飛ばすとキャッチしてからいっとき噛んで手(前足)で引っ張って遊ぶちゃび。気持ちよくなっている時、鼻に3本の縦皺が寄っている。

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いつもドーナツ座布団の穴にすっぽりはまるようにして寝るのが好き。

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この時は少し中心からずれているようだ・・・
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この丸みがたまらない。

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「杉並区」という表示が「區並杉」となっている。

健康診断 癌健診

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8月7日

気温34度。

きょうは総合健診と胃癌の検査。今まで総合的な健康診断を受けたことがなかったので興味もあるが、また病気が見つかったら嫌だなあと思う。

9時に家を出たら、地下鉄のホームで、昔、西新宿に住んでいた母の友人のEさんに声をかけられた。Eさんは90歳近いと思えないほどしっかりしていて、私なんかよりずっと元気。昔から知っている人が変わらず元気でいてくれることが本当に嬉しい。今度家に遊びに来て、と言われる。

9時50分頃クリニック着。検査着に着替えて、まずは血圧測定。130-79。(以前100-60くらいだったのだが上がっている。走ってきたせいか。)

次に身長体重測定。162.2cm。46kg。

肺のレントゲンは定期的に受けているのでいいです、とパスした。

眼底撮影。片目ずつ撮影するが、両目で見て、遠くの緑の夕日みたい、と思った瞬間に終わり。

初体験の心電図。身体につけるパッドがとても冷やっこかった。

血液検査。肝炎検査も含めて5本採取。ここのクリニックは皆、やりかたがとても丁寧で親切。

それから診察室へ。気になるところは、と言われ「胃酸過多で苦しいです。ピロリ菌の除菌をしたほうがいいですか?」と聞いたら、胃酸過多や逆流性胃腸炎だからと言ってピロリ菌がいるとは限らないと言われた。

最後に胃のレントゲン。10年以上前にやったきり。「バリウムを飲んで具合悪くなったことはありませんか?」と言われ、「昔、胃の調子が悪い時にバリウムを吐いてしまったことがあります。」と答えた。私の場合、歯科でもすぐにオエッと喉が反応してしまうので困っている。(『喉頭拘扼(こうやく)反射』、『催吐(さいと)反射』というらしい。)

炭酸の顆粒を少量の水で飲み、絶対にげっぷを出さないように我慢してくださいと言われる。それから「バリウムを2回ずつ続けて飲んでください」と言われ、飲みだしたのだが、やはり胃と喉のあたりがむかむかして、口に入れたバリウムを飲み込むことができない。

「味わわないで。すぐに飲んで。」と言われるが、喉を動かしたらオエッともどしてしまいそうなのを必死で耐えているので、どうにも動けない。いろんな方向を向くように指示されながら機械が回転。涙でぐしょぐしょになりながら、なんとか最後までがんばって飲んだ。途中、少し胃がしぼんできたと言われ、2回目の炭酸を飲まされた。

「たいへんでしたね。」と言われ終了。全部の検査で2時間弱。

終了後、食事に行ったが食欲がまったくない。ただ咽喉の乾きの感覚は急激に出てきてパスチャライズコーヒー牛乳を2本飲んだ。そのあとも冷たい緑茶を。

・・・・・・・

帰宅してメールを見るとカルヤニ(Horst Janssenのお孫さん)からの連絡があった。

8月6日

36度。原爆の日。

明日の検査のため、きょうの夜9時以降は絶食。明日は朝6時以降は水もだめということ。

猛暑なのに明日水を飲まないで検査終了まで我慢できるのか不安。真夜中も暑くてなかなか眠れない。

8月5日

気温36度。呼吸が苦しいほど暑い日。健康診断のため、新宿のクリニックへ。

1時40分ごろ受付。きょうは婦人科系の検査。

まず乳癌の触診。私の場合、乳腺の関係か、触診のとき、いつも少し痛い。

次に子宮頸癌健診。たいしたことではないはずだが、いつもとても怖い。診察台に乗って、と言われると緊張ですごく胸がどきどきしてくる。

診察台に乗るときに、水の中に入った器具が見えたので、なるほどこういうものを使っているのかと認識できた。それでカーテンの向こうで何をされているのかわからなくてただ痛いのよりも、少し安心できた。

過去、医師によってはすごく痛かったのだけど、今回は若い女性の医師で、そんなに痛くないほうだった。それでも「いたたた・・・」と思わず声が出てしまい、「息を吐いて、楽にして。だいじょうぶですか?気分悪くないですか・」と言われた。しかし一瞬で終わった。

帰宅してから調べてみると、クスコというインカ帝国の首都のような名前の器具で(この器具の名前は外科医の名)、サイズもいろいろあり、やはり扱う医師によって痛かったり、痛くなかったりらしい。

触診も、昔、子宮内膜症がひどかったときは手でお腹を押されると、ぎゃっと涙がほとばしるほど痛かったのだが、今は普通に押されている感覚。

次に初体験のマンモグラフィー。呼ばれて撮影室にはいってから「どうですか?説明を読んでだいたい理解できましたか?」と言われ、「えっ?説明書もらってません。」と言ったら紙を渡されて、びっくり。

上下にパンケーキみたいに潰されているおっぱいの写真を見て、絶対無理と思った。乳房を挟むというのは聞いていたのだが、こんなにぺったんこに押しつぶすとは想像していなかった。

「あの胸がないんで挟めないと思うんですけど。」と言ったら「きょうはこっちでやりますからだいじょうぶ。」と言われ、縦にはさむ機械へ。

機械の角に脇をつけて、無理やり引っぱるようにして胸の肉をはさみ、厚さ2cmくらいになるまで圧迫。「いたたた・・・」と言いながらも、なんだかおかしくなって笑ってしまった。

8月3日

気温36度。

コロのけがはよくなってきたそうだ。縫わないでも抗生物質の注射が効いてよかった。この暑さで傷がうんだりしないかと心配していた。

鎌ヶ谷 / 和田堀 永福

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9月8日(月)

がんの定期健診のため、新鎌ヶ谷の病院に行く。高円寺から中野経由地下鉄東西線で西船橋へ。そこでまたJRに乗り換えて船橋に行くと470円。JRだけで船橋まで行くより170円安い。さらに船橋から東武線で200円。

A先生に開口一番「やせましたね。」と言われる。一番調子の悪かった時が41kgで、今はその時より3、4kg多いのであんまり気にしていなかったのだが「やせるとどんどん筋肉が少なくなってしまうから。」と心配された。

前回、聞き忘れてしまった重要な確認、「どっちの声帯を切ったんでしたっけ?」と質問すると、「麻痺の確認に、ファイバースコープ入れてみていいですか。」と言われ、両方の鼻の穴にシュッ、シュッと麻酔をスプレーされて、鼻からのどまで長いノズルのようなものを入れられる。

「痛、痛い・・・」と汗だくになってからだが固まってしまっていたら、「もう少し上を向いて。え~~と言ってみて。」と言われる。その後、画像をPC画面で見せてくれ、「これ、左の声帯は切ったので萎縮しているんです。右は声を出すときは伸縮しているけど、こっちにブロック麻酔を打ってしまうと気道がふさがれてしまうので。」と言われた。

なるほど、星状神経ブロック注射を右の首に打って、のどが詰まり呼吸困難になったことが6、7回もあるわけである。それにしても何回もブロック注射をしたSクリニックでは、首の手術をしたことは申告したが、一度も声帯を切ったかどうか聞かれなかったな。

赤いのどの中で、そこだけ白い細い筋肉(声帯)を見て感慨深かった。声帯を片方切ったら、低く響かない声に変わってしまう、と手術前に言われていたわりには、そんなに声は低くなっていない。右の声帯が予想以上にカヴァーしてくれている。

3時半くらいに病院を出、東武線のとなりの駅「鎌ヶ谷」で降りて散歩。

森や野原みたいなところをさがして歩くが、駅前はつい最近建ったと見える巨大なマンションと、同じく真新しい建売の似たようなかたちの家がたくさん並んでいて、都心より緑が少ない。

昔の土手や森は、ざっくりと残酷な傷のように切断されて、ほんの少しの断片がいくつか飛び飛びに残っている。最近開発されたところは、ほとんどが草も生えない、並木もないコンクリートとアスファルトで、その落差が極端だ。

「道野辺」という美しい地名の場所を歩いてみたかった。八幡神社の道しるべのところだけは少し古い。

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八幡神社の鳥居と階段の前を通ったが、あまりにも真っ暗で、雨も降って来たので階段を上るのはやめた。いかにも蚊にさされそうなので。

湾曲する道を行くと、市役所の横に百日草や鶏頭が植えられていた。
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近くにある基地の飛行機がしょっちゅう飛んでいる。Sdsc04024

とても不思議なオシロイバナを発見。オシロイバナは花弁はなく、花弁に見えるものは萼で、萼に見える緑のものは総苞だが、この株は、萼に見える総苞の部分が花弁のように変化している。
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変化によって、花の中からもうひとつの花が出ているように見える。こんなオシロイバナを見たのは初めてだ。
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これも初めて見る黄と白の混じったオシロイバナ。とても珍しいが開花していなくて残念。

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広い道を進むと「市民の森入口」があった。少し入ってみたが、やはりとても暗くて、蚊にさされそうなので奥に入るのをやめて引き返した。

ようやっと昔ながらの素敵な家を見つけた。この地域では、このような家はもうほとんどない。塀や柱に無造作に生い茂ったカラスウリの蔓が魅力的だ。

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ぐるっと回って駅前に帰って来たところで、きれいなターコイズの日よけと錆びた階段が美しい店を見つけた。

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3軒並んだ一番右の店は「銘茶」と書いてあるのにお茶屋さんではなく、なぜかカタカナの書き順表一枚50円やトランプのフリーセルの遊び方の説明書きなどを売っていた。
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駅に戻って地図を見たら、「囃子清水七面堂」というすごく魅力的な名を見つけて、それだけは見てから帰ろう、と引き返した。

威圧的な巨大マンションの横を通って細い坂の右側に小さな神社があり、そこが「囃子清水七面堂」だった。神社の奥から「囃子池」「囃子水公園」に降りられる階段が封鎖されていたので池を見ることができなかった。

東武電車で船橋に出て、以前からすごく気になっていた廃屋を撮った。都市計画により閉店となりましたという貼り紙があった。

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錆びた階段の微妙にひしゃげた螺旋の造形がすごく素敵だ。
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9月6日(土)

きょうも善福寺川沿いを歩く。枯れて緑色になった紫陽花をさがして歩いた。

最初に都営阿佐ヶ谷住宅がどうなったか、怖かったけれども見に行ったら、本当に何もないだだっぴろい土地になっていて、まだ何も建設されていなかった。

あれほど、他に類を見ないほど魅力的な場所だったのに。記憶の生き生きした素敵な家並や、ミモザやスモモや柘榴の樹や、白詰草やモジズリや蕗や紫陽花や立葵や乙女椿や、遊んでいた猫たちが見えて、ショックでとても言葉が出なかった。

とりあえず善福寺川沿いの道を和田堀池へ向かった。

甘い匂いがするという桂の樹の林を抜け、ユリノキや多曜咲きの朝顔を見ながら、蚊にさされないように注意して歩いた。公園の裏道にあった畑がなくなっていた。

途中で黄色の彼岸花を見つけた。

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和田堀池のとなり、釣り堀武蔵野園の売店、きょうは開いていた。まだ「氷」の旗がはためいていた。

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売店の正面真ん中あたりにいる青い忍者みたいなのが、「ぼく、じゃじゃまる~。」としゃべるポップコーン販売機。
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和田堀池のほとりの「りばあさいど」で休もうと思ったが、もう閉まっていた。

Aさんから伺った話によると、昔、Aさんが小さい頃、Aさんのお父さんが空気のきれいなところをさがして、この和田堀池のほとりの売店のある家(現在はその売店はない)に越してきたそうだ。その頃は、この辺の観光のための旅館などもあったらしい。

善福寺川沿いを永福町のほうへ向かう。とてもきれいな錆びの絵になっている扉を発見。

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ここは先ほどの錆びの扉とはまた別の場所。以前動画に撮った魅惑的な錆びの塀。
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永福町へと歩いている途中で素敵な廃屋を見つけた。

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「杉並区」という表示が「區並杉」となっている。いつごろ建てられた家なのだろうか。

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永福町に着いてから、西永福まで線路沿いの道を歩いた。オオマツヨイグサが茂った原っぱがあった。一本手折ったが、マツヨイグサの葉はどれも虫(たぶん蛾の幼虫)に食われた細かい穴がびっしりあいていた。

線路沿いに植えられている紫陽花の花はみな茶色く枯れていた。

西永福の三崎丸でかきあげを食べた。

9月5日(金)

和田堀池のほとりに住んでいるAさんとまた話した。池のほとりにある食事処「りばあさいど」はAさんのお母さんがやっていた売店とは別だそうだ。

昔、池のほとりで猫と遊んでいた時、話しかけてきてくれた優しいAさんのご主人はお元気ですか、と尋ねたら、7年前に亡くなったと聞いてショック。

ご主人は下関の人で、本当に動物好きで、ご主人の実家ではいろんな動物をかわいがっていて、猿なども飼っていたそうだ。

9月4日(木)

3時頃、父が玄関前で転んだところに居合わせて、救急車を呼んでくれた人がいて、父は新宿のH外科に運ばれた。脳のCTなどを撮って、異常なしだったので自宅に帰った。

近所の親切な人のお名前はわからないので、御礼を言うことができない。

「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」展

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9月13日

板橋区立美術館「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」展へ。

午後2時より大野慶人さんの舞踏があるので、家を12時頃出る。きょうは陽射しがとても強い。(写真はクリックすると大きくなります)

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地下鉄赤塚駅に着き、地図を見ようとすると、外国人に声をかけられ、板橋区立美術館への行き方を聞かれる。一緒にタクシーに乗った。彼はボブと言って、アメリカから来た大野慶人さんのお弟子さんだそうだ。ボブはタクシーの中で、10年くらい前に大野一雄さんと慶人さんと上星川の幼稚園のクリスマスにサンタクロースとその仲間として出演した時の写真などを見せてくれた。
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展示は、マニエリスム、ナンセンス、悪魔、ノイエザハリヒカイト、世紀末芸術、贋物、覗き箱、日本のアングラ・・・などなど種村先生が紹介した美術家たちの作品をいっぱい集めてある。

2時に大野慶人さんが仮面をつけて薔薇をたずさえて登場。全部で4曲くらいだったろうか。慶人さんの舞踏を見るのは久しぶりだ。お元気そうでよかった。

新宿パークタワーの大野一雄さんの舞台で最初にかかった曲、バーバーのアダージョ。慶人さんが踊る後ろの窓越しに森が見え、木々の隙間から強い陽の光が輝いて見えていた。

(2001年、パークタワーの大野一雄織部賞受賞記念公演は最高だった。中川幸夫先生もお元気で、中川先生直筆の書が入ったポスターをいただいて帰った。)

日本で「舞踏」が誕生したのが1959年。その頃、大野慶人さんは10代、種村さんは20代だったそうだ。

土方巽は最初、外国人に肉体コンプレックスがあってオイルを塗ったりして筋肉を大きく見せていた、しかしある時秋田から帰ってきたらすごく痩せていて、「秋田は寒いからやせちゃった。」と言って、それから体を白塗りにしたとか。

土方巽のうめき声のテープをかけて、「土方さんはうめき声をやってから、おもしろかった?ってきくんですね。あのひとはさめてるんですね。」というような話で会場を笑わせていた。

種村季弘先生のことを想うと胸がいっぱいになって涙が出てしまう。ものすごく繊細で、優しくて、しかも正直なかたで、とてもかわいがってくださった。これは2000年、種村先生が泉鏡花賞を受賞された時の「立春の宴」(学士会館)の写真。

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帰りは地下鉄赤塚駅までてくてく歩いた。久しぶりに陽射しが強くて喉が渇いた。

知らない街を歩く時、必ず古い素敵な建物や、草の生えた場所、車の入れないような細い道をさがしてしまう。

赤塚駅近くの古い歯科の建物。
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オヒシバ、メヒシバ、エノコログサや薄紫の野菊の生い茂る線路沿いの細い坂道を歩く。

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遠くの空に積乱雲。西日が射してきた。

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裏道。キクイモが満開だった。キクイモはオオハンゴンソウと似ているが、オオハンゴンソウのほうは葉が裂になっているので区別できる。
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白と紅の混じった絞りのオシロイバナ。この匂いが夏の名残り。

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9月12日

切ったほうの声帯が左とわかったので、Sクリニックに星状神経ブロック注射に行ってみた。

久しぶりで結構筋肉が固くなっていたので、針を刺した時に、針の痛みというよりはびーんとくる筋肉痛のような感覚があった。

甲状腺切除の手術で左の声帯を切っているので、神経ブロック注射は右にはしないように、右に打つと気道閉塞になるとがんの主治医に言われた旨、報告すると、M医師は、「声帯じゃなくてはんかい神経でしょう。」と言った。「反回神経」というものらしい。

「切ったこと隠してました?」と言われ「は?」と思った。隠すわけない。甲状腺切除したことは初診の時に申告しているが、声帯切除のことは聞かれなかったし、「反回神経」なんて言葉は今初めて聞いた。それで毎回右に打っていて、気道が塞がって本当に苦しい思いを何回もしたが、「息が苦しくなる時はよく効いている」というような説明しか看護師さんから受けていなかった。

9月9日

母の施設へ行く。

とても親切な職員Oさんに「きょうは元気でしたよ~。」と言われて嬉しい。

夕食介護し、お茶のみを残し完食。差し入れの「極みプリン」も完食。食べている途中から傾眠になってしまったのでお茶を飲めなかったのだけが残念。

青紫のベロアジャケット / 戸山 高田馬場  

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9月15日

友人Bと戸山を散歩する。

新宿駅で午後3時頃の丸ノ内線に乗って、東新宿で降り、副都心線に乗り換えて東新宿へ。降りてしばらくしてから、ものすごく思い出のあるお気に入りのジャケットを電車に忘れたことに気づいてうろたえてしまった。

東新宿駅の忘れ物係りに届け、捜してもらったが見つからなかった。ものすごくショック。

私にとっては、亡くなってしまったあまりに大切な人たち、若林奮先生、種村季弘先生、毛利武彦先生と会うとき、そして日隅一雄さんのパーティーの時など、特別の時に着ていた一張羅といえるジャケットだったので、すごくショック。高円寺の庶民的な店で2900円で買ったものだが、個人的には濃密な記憶が詰まっている。

とりあえず気持ちを休めようと、なにか似たようなものはないか検索してみたが、青紫のベロアのジャケットはオークションにもどこにもなかった。(似たような古着でもどこかで売っていたら教えてください!)

昔、大切な友人の授賞式にて、私が着ていた青紫ノベロアジャケットの写真

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・・・・・

気を取り直して戸山の片隅の私の大好きな小さな花園に行く。

前は春と初夏に来て、ニゲラ、デルフィニウム、アイリス、ハナビシソウ、薔薇などが咲き乱れていた。今は枯れた向日葵に百日草、彼岸花、鶏頭、それに小さな葡萄など、秋の気配に満ちていた。

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彼岸花は赤いのと、白いのと、薄黄色の花が咲いていた。

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これは白でなく薄黄色の彼岸花。

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百日草はいろんな色の花がいっぱい。
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この鶏頭は赤ではなく、おしゃれなワイン色。
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薄荷の繊細な薄紫の花。

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いろんな花と雑草の陰にひっそりとかわいい葡萄が実っていた!色のグラデーションが微妙でとてもきれい。

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紅蜀葵(こうしょっき)、またの名は紅葉葵(もみじあおい)。ヨモギやヤブカラシなどの雑草が刈り取られすぎていないところがとても素敵だと思う。

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箱根山の頂上近くにある教会と、数百年も生きていると見える大欅を見、かつて731部隊の人体実験の証拠となる人骨が出たという戸山公園を抜け、国立感染症研究センターの脇の道を下り、早稲田のほうへ。

早稲田通りを高田馬場方面へ歩く。ここはかつて素敵な昭和の喫茶店「らんぶる」が会った場所。

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「らんぶる」が無くなって淋しいが、夏草が彩っていてくれることに少し慰められる。
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「らんぶる」のすぐ横の私の大好きだった古い階段。
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早稲田通りから少し左にはいった諏訪町あたり。古い階段を上ると真っ直ぐな細い道がある。ついこの前来た時は、この写真左側には小さな古いアパートがあったのに壊されていた。

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この細い道を行くと薄ピンクの塀に沿って野生の草花が咲いている。塀の罅割れの穴からドクダミや薄荷が伸びて花をつけているのは、フラワーアレンジメントやへたな生け花より美しいと思う。


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抽象画のような錆びた板。

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これも、素晴らしいタッチ、見事なマチエールの絵に見えるが、地下鉄のホームの柱。人間が意図的に作ったのではないもののほうに絵画的な感動を覚える。

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ちゃび 動物 肉食について / 乳がん再検査

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9月17日

ちゃびがきのうから全く何も食べていない。うんこもしていない。4日くらい前から急に食が細くなり、秋バテかな?と思ったが、ゴロゴロ言っているし、水は飲んでいるし、具合悪い感じでもないので様子を見ていた。

しかし丸1日以上、なんにも食べないのはおかしいので、すごく不安になって、H動物病院に電話してみた。水は飲んでいるか、おしっこの量は、など聞かれ、高齢なのでもっとも考えられるのは腎臓が悪くなっていることで、なるべく早く来た方がいいと言われた。

きょうは私の乳がんの再検査の日で、時間がどうなるかと思ったが、夕方急いで帰宅して行くことにした。

・・・

さて、区の健診を受けた新宿のクリニックにて乳がんの再検査。カルテをつくったりするのにけっこう時間がかかった。「この前撮ったのと別の角度で、もう一度マンモグラフィ撮りますか?嫌なら先生と相談で。」と言われ「相談させてください。」と応える。

まず臨床検査師の人にエコーを撮られる。検査の時、いつも「くすぐったいかもしれません。」と言われるが、私の場合は押されたりこすられたりすると痛いので緊張する。

画像を何枚も撮られ、ピッピッと音がして、見ると検査師の人が気になるところにやたらしるしを付けているので「そんなにいっぱい疑わしいスポットが?」と思い全身から汗が出てきた。

先生の診察でもう一度右胸のエコー。気になるのはマンモに写っている右胸の白いところ。だがエコーと触診ではだいじょうぶそうなので、乳腺がここに飛んでるだけかもしれない、と言われる。水がたまっている細かいふくろはたくさんあるが、それは問題なし。

3か月後にまたエコーをし、その時は両胸のマンモもしっかりやって検査しましょう、とのこと。そこで疑わしかったら細い針を刺して細胞診。さらに疑わしかったら太い針を刺して、確定になったら全身麻酔の手術だそうだ。

・・・

5時すぎ帰宅して、ちゃびを病院に連れて行く準備。タクシーでH動物病院へ。

H動物病院は最近新しくできた病院で、高円寺ニャンダラーズへの協力や、殺処分をなくす講演や、一貫して動物愛護の活動をしている院長さんだという記事を読んでいたので、何かあったらここに行くと決めていて場所の下見をしておいたところだ。

H動物病院に着いてびっくり。玄関の前にも、中にもびっしり待っている人と、大きな犬がいっぱい。こんなに混んでいる動物病院を初めて見た。おむつをして床に寝ている犬もいた。

ちゃびはほとんど外に出たことがないので、緊張してかわいそうだったのだが、まわりにいる犬や猫をキャリーの中から観察しているようだった。

ちゃび2800g。昔から小柄だ。診察台の上に乗せられるちゃびは、本当に怯えているので「ちゃび~、だいじょうぶよ~」と上半身を抱いて撫でながら・・・しかし25ccも採血されて痛がるちゃびを見て私もどきどきして汗まみれに。

検査結果が出るまで再び待合室で待機。お客さんはひっきりなしに来て、ちゃびよりも先輩の21歳という猫ちゃんも来た。

結果、腎臓が悪くて脱水症状を起こしている、と言われ、皮下点滴をしてもらう。明日はH動物病院は休みなので、これで食欲が出なかったらどうしよう、と不安にかられる。心臓も弱っていると言われ、飲ませられたらやってください、と薬を3錠出された。

いつまでも赤ちゃんの時と変わらずに、紐にじゃれて走ったり、パイルヘアゴムを飛ばすとキャッチしたりしているちゃびが、実際は人間に換算できないくらい歳をとっているということをつきつけられたようで、胸が苦しくてたまらない。

帰宅すると7時45分。とにかく何か柔らかいちゃびが食べそうなものを、と8時閉店の店へ走る。店はもう片付けをしていたが「すみませ~ん!」と飛び込んで「銀のスプーンプレミアム 三ツ星グルメ15歳以上用」というのを2種類とまたたび粉を買った。

ちゃびは、皮下注射の液がたまったところが脇の方にぷよぷよぶら下がっていた。お願いだから元気になって!!と涙が出る。

深夜、ちゃびに「銀の・・・」を袋からしぼってあげてみたら、食べた!!!すごくおねだりするようにして完食!

総合栄養食のほうは少ししか食べなかったが、まずはよかった。これからいろいろ気をつけてあげないといけない。

最近のちゃび。これは9月3日。すごく元気だった。

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9月7日のちゃび。私の薬袋にはいって、穴があいてるところから顔を出してみていた。

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9月15日のちゃび。ちょっと食が細い気がしたが、普通に元気だった。うんこ少量。

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・・・

動物について、

Bに「日本では、私が肉を食べられないと言うと攻撃してくる人がいる。外国ではすんなり通るのに。」と言ったら、

「欧米では狩猟民族の歴史が2000年以上続いていて、その中で逆に動物を殺して食べることに反対する人たちも出て来、さらにいろんな考え方も出てくる。日本では肉食の歴史が浅く、いろんな議論も全く成熟していないから」と言われて、なるほどと思った。

欧米ではベジタリアンというと卵やミルクはOKの人が多いようで、完全に動物を食べない人をヴィーガンという。さらに進んで、人間生活のあらゆる面で、動物を利用することを完全にやめるべきとする人たちがいて、過激な活動をしていたりする。

言葉にするのは困難だが、私が思うのは、すべてを厳格にしようと理屈で考えていくのはよくないということだ。すべてを単純に分類していくと感覚はどんどん死んでいく。それは身体感覚から発するものではなくなって、「信条」「イデオロギー」になって硬直する。

しかし、常に感じながら何かに向き合うということは、非常にしんどいことだ。だからほとんどの人はあるやりかた、やりすごしかたを覚える。

一度線引きをし、分類したものごとが決まり事になり、ルーティーンになると、本当の微妙さ、誠実さ、割り切れない感情は死んでしまう。

そういうふうに思うのは私が「活動家」ではないからだ。「活動家」であれば、現実に対しての有効性を考えるのは当然だ。

たとえばH病院の先生だって、犬猫の殺処分ゼロの運動をしている人たちだって、肉食をしないかどうかはわからない。犬猫をかわいがっている人でも牛豚鶏の命にはほとんど関心がないのは、まあ一般的だと思う。いろんな関わり方、考え方はあるが、自ら実践として活動している人たちについては尊敬せざるを得ない。

日本などでは「文化」的に習慣化し、固着してしまった「牛、豚、鶏は食べ物であり、そこに生き物に対するシンパシーは不要」という意識を根底から問い直すことは一般的には難しいのだろう。

もちろん肉食している人でも尊敬する人、大好きな人はいるし、肉食を絶対しないという人でも好きになれない人はいる。

かわいがられる動物と、殺される動物、殺されるために飼育される動物の区分、その差が激しすぎることが、本当に恐ろしいことなのだが・・・裕福すぎる人間と、命を尊重されない人間の差が激しすぎること以上に、その理不尽は途方もない。

私個人に関して言えば、最初に身体感覚が肉食を拒否し、その後で言葉が来た。

最初にいわゆる肉を食べられなくなったのはたぶん4、5歳のころだ。気持ち悪くて吐きそうになったのだ。その頃から、家には犬も猫もいた。

動物が自分に近い存在であり、個性(個々の生命)を持つこと、かわいがっている犬や猫と食肉にされる動物はいったいどこが違うのだろうか、という問題意識がはっきり(言語化)したのは、もっと後になってからだ。

問題意識はさらに強く身体を変化させるので、意識してからは、動物を殺すのは厭だという感覚、肉食に吐き気を覚える感覚は、相互作用でどんどん強くなっていった。

たとえば牧場などで、牛や羊と遊びながらその横で肉を食べる観光や、食べ物としての動物のユーモラスな戯画、そういった、文化的コードによる一見のどかで無垢な環境への翻訳が、私にはとても怖いのだ。特に「仔羊」や「仔牛」という名前のつく料理があるのを見ると、ものすごく怖い。仔羊や仔牛を見て、触れて、本当にかわいいと思ったことがあるからだ。

私の場合、その恐怖によって、肉を焼く煙やにおいでも吐きそうになるし、ハム、ベーコンなどの加工品や、ラード、ブイヨンなどの出汁、チキンと一緒に揚げたポテトなどもまったくだめだ。

かと言って、「ロハス」や「マクロビ」などの言葉が好きかと言われると好きではない。「ロハス」は経済用語だし、「マクロビ」は別に動物への思いやりがあるわけではなく、ただ自分の美容と健康のために称揚している人が多いからだ。

・・・

話は少しずれるが、たちが悪いのは、頭がよくて言語操作に長け、最初から懐疑的無関心のうちにいる人たちだと思う。「偽の問題意識」でディスカッションし、一見、微細なところまで踏み込んで考えているふりをするが、実際は多くの議論が本質的なところで無関心をさらしている。

たとえば虐殺や飢えをテーマにした講演や展示をしたすぐ後に、関係者で焼肉三昧の宴会をする人たち。せめてそのイヴェント直後だけでも慎めばいいのに、それすらできない。彼らは、ただ知的遊戯を楽しんでいるのであり、虐殺する者、される者の話をしながら、少しの吐き気も感じない。

水沢勉さん来訪 /  ちゃび

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9月22日

水沢勉さん(神奈川県立近代美術館館長)が、私の仕事場に来られた。私についての文章を書いてくださるためだ。

社交辞令だと思っていたのに、本当に私の仕事場兼住居(ただのアパートの部屋)に来られることが信じられず、緊張と焦りで心拍数が上がりっぱなし。

水沢さんは、恐ろしくお忙しい方で、先週も出張で全国を飛び回ってらしたそうだ。そんな方が、売れっ子でもない、非常に地味な、私なんかの仕事場に・・・。

いつも来客(電話工事の人など)が来ると押し入れに飛び込んで石のように固くなって息をひそめているちゃびが、部屋に入って来られた時、意外にも逃げなかった。水沢さんも4匹の猫を飼っているから、匂いでわかるのかもしれない。

水沢さんは、まず飾ってある写真――吉増剛造さんや、若林奮さんや、中川幸夫さんらと一緒に撮ったものや、私の絵の前で舞踏する大野一雄さんを一枚ずつ丁寧に見て、とてもいい写真だと言ってくださった。

それから壁にかかっている絵――Horst Janssenの銅版画や、私が癌で手術した時に毛利武彦先生が送ってくださった銅版画、宮西計三のペン画や水彩、花輪和一のペン画などをゆっくり見てくださった。

中でも、美術評論家にほとんどまったく知られていない宮西計三の絵にちゃんと目をとめて、「これ、どうやって描いてるの?この人はとても濃密な人だ。」と言ってくださったことに感激してしまった。

水沢さんは、なんて偏見がない人なのだろう。私と宮西計三や花輪和一との親交について、「80年代カルト」と鼻で笑った某有名美術評論家(大学教授)の態度を思い出していた。

それから座ってお茶を飲んでくださって、いろいろお話した。(正直、私はお茶も飲んでくれないのではないかと思っていた。ぱっぱっと部屋を見て帰ってしまわれるのじゃないかと。ものすごく忙しい人が、お茶を飲んで、豆餅(おかき)を食べてくれるというのはすごいことだ。)

若林奮先生、中川幸夫先生、大野一雄先生との思い出、絵の技法のこと、ドイツに行ったこと、前の個展のこと、私の生い立ちからこれまでのことなど、いろいろ・・・。

PCの中の、私の前の個展(2012年11月キッドアイラックホール)の時の画像を見て、来てくれた人たちの顔が「落ち着いてる」とか「上品なおじいさんが多い」と言われたのにも感銘を受けた。

水沢勉さんの『この終わりのときにも』を再読している。

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 「いくつかの新しいメディアが登場したときには、まだ、そのメディアとの居心地の悪い関係が、奇妙な異邦人の同居人という具合に、たしかな手触りで存在していた。

いつどこでどのようにしてかを正確にとらえることは難しいけれども、この十数年のうちに事態は急速に展開してしまったようにみえる。

それまでの現実の感覚神経よりも、はるかに至近距離でつぎつぎとめまぐるしく移り変わってゆく擬制の感覚刺激の明滅に応接しているうちに、がらんどう同然の感覚の洞だけが残る。

そのめまぐるしさとは反比例する、微弱なエネルギーの残響が、そこにむなしく充たされてゆく。それも、けっしてのっぺらぼうのものとしてではなく、おびただしい微細なニュアンスをもって。

おそらく、この微かな差異を感じるそのたびに、「ぼくのかけら」が、その空疎なスペクタクル性に圧倒されながら、無気力に反応をつづける。どこまでも惰性態としての主体が、感覚だけをたよりに、過去でも未来でもない、永遠の現在に吹きさらされているばかりだ。

それが心地よいものであれば、その空気のありよう、動き、風を、ぼくたちは、もはや「芸術」なぞとはいわずに、とりあえず、曖昧なまま、もっぱら気分で、わざわざ片仮名をつかって「アート」と呼んでいる。」 

(「『この終わりのときにも』水沢勉 思潮社 行分けは引用者)

・・・・・・

ちゃびの最近の状況

9月25日

朝、大声で私を起こし、なかなか起きないので紙類をかじって破ろうとするくらい元気になった。「ミオ15歳以上」を半缶とドライ数粒、勢いよく食べる。うんこ少量。

ゴロゴロ言って私にまとわりついたり、だいぶ元気になったが、夜は食べない。

9月24日

朝9時にうんこ少量。

ゴロゴロ言いながら草を食べる。私の背をかけのぼって冷蔵庫の上にジャンプ。

昼12時「カルカン15歳から」パウチ半分。

夕方、動物病院へ。皮下輸液と3種混合(小さい時に打ったのが消えていたので)。

病院から帰ったら急に元気になり、モンプチまぐろスープなど食べる。

この日、初めて気がついたが、「カルカン15歳から まぐろ」などには発がん性のある発色剤(亜硝酸Na)がはいっていることに、びっくり。なんのためにわざわざ発色しているんだろ。

9月23日

休日。ちゃび、食べない。よく水を飲んでいる。明日、また病院に輸液に行こうと思う。

9月22日

朝ウエット食べる。うんこなし。

9月21日

朝うんこ緑色。

病院で皮下輸液。

2回食べる。夜10時普通のうんこ。

9月20日

食欲あり、9時、12時、5時、9時30分と4回食べる。

夜うんこ。

9月19日

病院で皮下輸液。うんこなし。

9月18日

うんこなし。「カルカン総合栄養食15歳から」と「銀のスプーン15歳以上三ツ星ジュレ」を食べる。

9月17日

病院で血液検査。腎臓が悪いと言われ、皮下輸液。「銀のスプーン15歳以上三ツ星ジュレ」など食べる。うんこなし。

9月16日

ちゃび、何も食べない。水はよく飲んでいる。うんこなし。

9月15日

ちゃび、ほとんど食べない。うんこなし。

ちゃび 食欲廃絶からの復活

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10月7日(火)

朝、ちゃびが気になって4時半頃起き、見たらサイエンス14歳とシーバ15歳にかつおぶしをかけたものがほとんどきれいに食べてあった。(25gくらい)

それで、私も命を吹き返した。

まだ安心はできない綱渡りの日々だが、とりあえずほっとしたかったのでグリーンラベルのビールもどきを飲んだ。

そして8時半、ちゃびがついにうんこ(普通の4割くらい)をした!!10月1日(水)以来のうんこだ!ああ、よかった・・・・・それで私も少し眠ることにした。

夕方、オリンピックまでちゃびの食べ物を買いに行く。ついでにまたコスモスを買った。

帰宅して、ドーナツ座布団で寝ているちゃびを撫でたら、高いかわいい声でにゃあう、にゃあう、と応えてその声が低く大きなゴロゴロに変わっていった。撫でたら必ずゴロゴロ言って甘える本来のちゃびに戻った!

ここ何日か、撫でてもゴロゴロ言わないのですごく心配だったのだが、胃がむかむかして気持悪かったのだと思う。

トイレを見たらおしっこと大きなよいうんこがしてあった!!!

私はこれまでの不安と緊張がとかれて眠くなり、少し横になると、ちゃびはゴロゴロ元気に言いながら私の布団に入って来た。

「ちゃび、ありがとうね~ありがとうね~」と撫でると、ぐるにゃう!ぐるにゃう!と大爆発。やっと良いうんこが出て胃がすっきりしたんだね。

10月6日(月)

台風のあとの眩しい日差し。

朝起きて見たら、サイエンスとシーバ20gくらい食べていた。

水沢勉さんの『この終わりのときにも』を再読していて、オットー・ディックスの「汝の眼を信じよ」という言葉、また、「外面と内面はひとつである」という言葉に、ただ涙が出た。

夜7:20 輸液100ml。ぺリアクチン1/4。ベトメディン1/2。

ちゃび、食べる量が少なくてずっとうんこしていないのが心配で、調べるとふかしたさつまいもなどがよいとのこと。ちゃびが元気な時、甘栗が好きでたまに食べていたので、甘栗とふかしいもと生のサンマを買ってきた。

絵の具箱の上に寝ているちゃびの鼻先に有機甘栗を手で砕いたものを持って行ったら、ゆっくり食べてくれた。

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私の絵の具引き出しの上で甘栗を食べるちゃび。

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そのあと食欲が出ることを期待したが、ちゃびは静かなままで、チンしてほぐし、小骨を取り除いたたサンマも食べてくれず、私は不安で胃が締め付けられ、涙が出てくる。

治療院に行き、耳のうしろあたりが強烈に痛いと言ったら、「胸鎖乳突筋」ががちがち、よっぽど緊張するような仕事をしてるんですか、と言われた。

10月5日(日)

暴風雨。

朝、ちゃび、机の上にいる。私の紙類をかじって破り、おねだり。水、飲んでいる。おしっこ回数多い。

鱈の残りとサイエンス14歳10粒くらい食べてあった。

朝10時、スーパーが開くと同時に生の鱈を買ってきてチンしてあげると、1切れの1/3ほど食べた。

アイシアささみ派少々食べる。

嵐の中、病院が閉まる昼12時までに、食欲増進剤(ぺリアクチンとセルシン)もらってくる。

先生に人間用のガスターを飲ませていいか確認すると1/4ほど飲ませて良いと言われたので、午後1時、ガスター10を1.5mg(指示より少量)ほど少量の水に溶かしてシリンジで飲ませた。

2時~4時、私はちゃびのことしか考えられず、錦織の試合を見ていた。

夜7時、ぺリアクチンを1/3ほど飲ませる。

8時過ぎ、薬が効いたようで、ちゃび、今までになく興奮してくる。私の食べていたサンマの塩焼きをものすごく欲しがって手を出してくる。

9:30頃、朝の鱈の残り、かつおぶし、シーバ15歳、サイエンス14歳食べる。

深夜12時、ベトメディン1/2。

世界バレーの最終戦、日本vsドミニカを見ながらちゃびの様子を見ている。明け方3時過ぎまで、ちゃび、興奮気味で私に向かって鳴いたりうろつき回ったり。

絵の具箱の上にいる時に皿を鼻に近づけると、シーバ15歳とサイエンス14歳、かつおぶし、何回も少しずつ食べてくれる。

10月4日(土)

朝8時、にゃあにゃあと起こされるが私が眠そうにしていると、机の上の封筒を噛みちぎっている。

すごく食べたがっているのに、ジュレをあげると全く口をつけない。水も飲みたそうなのに飲まない。猫草だけかじって、その後、猫草と唾液を吐く。

昼12時までずっと、もどかしそうに私に絶えず訴えている。とても食べたい、飲みたい、だけど気持ち悪くてできないという感じ。

トイレのある洗面所に連れて行ってドアを閉めるがうんこしない。

私も疲れて横になると、私がかけているタオルケットの中に入ってくる。

病院に電話して6時20分くらいにタクシーで連れて行く。

吐き気止めの注射(セレニア)。先生に、この注射は沁みて痛いと言われる。ぎゃっと大きく鳴いてすごくかわいそうだった。

帰宅してからぐったりしている。

9:30頃、私の夕食の鱈に反応。急にゴロゴロ言って、鱈に手を出そうとする。醤油のかかっていない部分を手であげたら食べた!

今朝から食べたくて何も食べられなかったのに、とりあえず食べてくれた。鱈なんて生まれてから一度も食べたことなかったのに、たまたま買ったものに画期的な反応。

そのあとすぐ生の鱈を買ってきてチンしてあげたら食べた。

夜10:30、輸液110ml。

明け方3時頃、ピロリゲン(今は廃番になった卵黄からつくったというピロリ菌を除去するサプリ。かつてちゃびは袋を食い破って勝手に食べているほど好物だった。)を半錠食べた。

世界バレーイタリア戦をちらちら見ながら、朝5時半まで、ちゃびの様子を見ていて、不安と緊張でずっと耳の後ろあたりがずきずきしている。

あんなに痛がった注射の成果が、淡白な鱈一切れでは、これからどうなるんだろうと泣けてきた。

10月3日(金)

朝、銀のスプーン15歳ジュレ1袋。

あまり水を飲まない。おしっこもしない。

病院に電話すると、おしっこが出ないのはまずい。腎不全というのは多飲多尿になる病気で、おしっこが出ないのは腎不全末期で命に関わると言われ、10時半頃、タクシーで病院へ。

すごく混んでいる。とても大きな声でひっきりなしに、ぎゃははは、と、楽しげに話している人たちがいる。その大声に、必要に迫られて病院に行く以外は外に出たことのない、私と限られた友人にしか会ったことのないちゃびが怯えてしまっているので、私は少しいらいらした。

今この時、救急室には死線をさまよってる子がいて、ばたばたと蒼白な家族の人たちが奥の救急室に入っていくのは、人間の病院とまったく同じだ。(ちゃびの診察の時に、今日は心臓で今さっきまで元気だった子が急に苦しみだして人手が足りないのだと先生から聞いた。)

この場所が社交の場になるのはいたしかたないが、それにしてももっと小さな声で、穏やかに話せないのかと思う。

お互いどうなるかわからない不安のなかで、たまたまその時同席した人と、静かに言葉を交わしたこともあるがんセンターの待合室を思い起こしていた。

1時間半くらい待ってやっと診察。元気そうで腎不全末期にはみえないと言われる。

体重3.2kg。輸液の分が増えただけかも。血液検査の針を刺すため、太腿を強く握っていてくれと言われる。なかなかうまくいかなかった。

結果を待合室で待つ。9月17日はBUN75.9、CRE5.5、今日はBUN51.1、CUR3.4。輸液が効いて数値は改善してきている。

膀胱におしっこはたまってるのに、なぜおしっこが出ないかわからないと言われる。

食べないのは腎不全のせいではなさそう、心臓に負担がかかって調子悪いのかもしれない、今後は輸液は毎日100mlか一日おきで150mlくらいで、と言われる。ベトメディン(強心薬)を半錠ずつ朝夕飲ませて、と言われたが錠剤を飲ませるのは至難の業。

昼12時半過ぎ、帰宅してしばらくしておしっこする。絵の具引出しの上にいる時に、顔の前にぬるま湯を持って行ったらけっこう(120回ちゃぷちゃぷ)飲んだ。

ジュレ半分くらいなめる。

夜11時すぎに、思い悩んだ末、明日の夕方の中川幸夫先生の映画『華 いのち』の予約をメールでキャンセルする。ちゃびが心配で外出できない。

ちゃび、夜から朝にかけてけっこうおしっこする。

10月2日(木)

朝、にゃあにゃあと私を起こす。

食べたそうなのに、食べ物をあげるとなにも食べない。いろいろ出してあげても、どれも食べられない。おしっこも少ない。

そのあと、私が紅茶を飲んでいる時、膝の上に乗ってきて、すりすり、ゴロゴロ。元気そうだが、何回やっても食べない。好きだったジュレも鼻を近づけると、そっぽを向いてしまう。

きょう(木曜)は病院の休診日なので、一日中ちゃびを見ながら心配で苦しんだ。不安で押し潰されそうになりながら、無理やりコスモスを素描していた。

12時頃、トイレに細い小さなうんこ(普通量の1/4)くらい)。

その後、ドーナツ座布団で眠っている。おとなしすぎて不安。

夜9時輸液250mlくらい。

10月1日(水)

朝、トイレに3つうんこがあった。

朝8時くらいに、ケホケホケホ、と空咳(咳なのか吐きそうなのかわからなかったのだが、のちに先生に空咳は心臓が悪いから、と聞いてすごく心配になる)。

銀のスプーン15歳ジュレばかり食べたがる。ドライやウエットの栄養食をまったく食べない。

昼、洗濯かごの中に大きなうんこをひとつした。

深夜12時、このところ失敗ばかりで、私の胃がきりきりと痛む自宅輸液に挑戦。しかし細い針(21G)に替えてもらったおかげで一発で刺せた。

ちゃびは嫌がって鳴いていたが、とにかく200mlほど注入できた。

9月30日(火)

朝、元気に私を起こす。私がすぐ起きないと机の上の紙類を噛みちぎる。

トイレに3つうんこしていた。

銀のスプーン15歳ジュレ(1袋たった14kcalなので心配だ)ばかり食べたがる。シーバ15歳少々。

夜9時、サイエンスを乳鉢ですりつぶしてジュレをかけたもの少々。

夜11:30、サイエンスの部分を残してジュレだけ食べる。

9月29日(月)

朝、普通量のうんこ。

シーバ少々。

Hちゃん、5時にうちに来る。夕方6時頃、試しにソフトキャリーに入れて徒歩で病院へ。いつもタクシーで730円だが、徒歩でも10分くらいだ。徒歩だと揺れるのがストレスかと思う。

細い針(21G)に変更してもらい、私が刺す実習をしたが、針が刺さっていずに液が漏れた。もっと下向きに、勢いよく刺して、と言われる。皮に神経があり、ためらい傷が一番痛いんだと。結局先生が刺し、輸液300~400ml。

ちゃび、ソフトキャリーの中で輸液されたが、とても怖がって、輸液中身体がずっとぶるぶる震えていたのですごくかわいそうだった。胸が痛くてたまらない。

9月28日(日)

朝、ふつうによいうんこ。

シーバ15歳1~2袋食べる。

18Gの見るからに太い針で輸液しようと試みたが、ちゃびは痛がるし、どうしても刺さらない。

予想よりも実際にちゃびの皮膚は固いのだ。刺しているつもりでも中に入っていなくて輸液が外に漏れる。私は怖くて全身汗だくになる。

病院に電話して、細い針に替えてもらうようにお願いしてみる。明日、用意していてくれるとのこと。

夕方、病院までタクシーを使わないで行くとどれくらいか確認のため、歩いて行ってみる。キャリーを持たずに普通に歩けばちょうど10分くらい。

どこに行っても木犀が香る。香ってきたら必ずどこに咲いているのか確認しながら歩いた。清見寺の生け垣はすべて金木犀でできていた。

9月27日(土)

朝、ほんとに少量の細いうんこ。机の上で紙をかじって私を起こす。

銀のスプーン15歳ジュレを何回かに分けて2袋食べた。シーバほんの少量。

夕方6時、輸液を試みたが、針が太くてどうしてもうまく刺せない。輸液が外に漏れて注入できていない。

輸液しなければちゃびの腎不全が進行して死んでしまうという焦りで、私も心臓が痛い。毎日、輸液のこつと食欲がない時の食事についてネットで調べている。

夜11時、ふつうによいうんこ2個した。

沢渡朔「少女アリス」

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10月10日

沢渡朔さんからお知らせのはがきをいただいていた「少女アリス」展(ギャラリーFm)のオープニングレセプションへ。だいぶ元気にはなったが、ちゃびが心配なのでHちゃんに見ていてもらって出かけた。

沢渡朔さんは私が多感な中学生、高校生の頃、初めて本当に夢中になった写真家で、ぼろぼろになるまで写真集『少女アリス』のページをめくった。

そしてサマンサという少女の、夢のような金髪のほつれを、少ししかめっつらの顔を、幾度鉛筆で描いたことだろう。3Hの鉛筆で、おそるおそるたどっても、とうてい描けやしなかった。画像は私の持っている『少女アリス』。

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写真=沢渡朔

少女に贈る詩=瀧口修造、谷川俊太郎

思い出のアリス アリスの思い出 /少女たちへの手紙/掌編/オドロキ・モモノキ式写真機=ルイス・キャロル/高橋康也訳 

装丁・題字・レイアウト=堀内誠一 

帯文=種村季弘 

という信じられないほど豪華な顔ぶれの本です。また少女時代の私は沢渡さんの「撮影日録」にも強烈に惹きつけられた。

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沢渡さんの『少女アリス』『海から来たアリス』『ナディア』、この3冊は私が少女の時に出会って、どんなに年をとっても、幾度見返しても色あせない写真集です。「詩とメルヘン」に掲載された「遠くにいるアリス」(文=別役実/写真=沢渡朔)も胸が痛むほどに忘れ得ぬ作品だ。

恵比寿西口の坂を上がる途中、植物が浸食したとてもおしゃれな建物の中にギャラリーがあった。
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昔の原宿の同潤会アパートなんかを思い出す。(あそこは建て替えて、どうしてあんなにひどいものになってしまったんだろう。)
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ギャラリーの建物の入り口。

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ギャラリー内は撮影禁止なので「少女アリス」展の看板の前で撮るしかなかった。

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今回の展示は、『少女アリス』が刊行されてから40年という年月を経て、当時、ハッセルブラッド(スウェーデン製の六×六判カメラ)で撮影された300本のポジフィルムから、新たにアザーカットのみで構成しなおした写真集刊行(河出書房新社)にあわせて開かれたものだそうだ。

ちなみに、本はまだつくっている最中だそうで、会場で予約してきた。

40年前のポジフィルムは、その年月とともに変化し、不思議な青色の蛍のような光をまとっていた。少女の頃の私が夢中になった魅惑はさらに増し、この時代だからこそ強烈に惹きつけてくるようだ。

狭い会場の中に溢れる人々。私もお顔だけは知っている有名写真家、女優、俳優、業界の人たちがひしめきあっていて、端っこの壁ぎわで沢渡さんにご挨拶する機会を待っていた。

沢渡さんは皆に囲まれて大忙しなのに、人波をぬって私のほうに寄ってきて、そっと肩に手をかけてくれた!

一緒に行った友人も驚いていたが、沢渡さんほど偉ぶらない気どらない天才を見たことがない。ファッション業界や芸能界にも近いところで長年仕事をされているのに、そういうぎらぎらした感じがなくて、感覚的で繊細で正直で、本当に余計なものをまっとていない、いつまでも青年のままの、とにかくかっこいい人だ。

沢渡朔さんと「少女アリス」展会場の入り口で(カメラが苦手な友人が撮った)。さりげなく肩に腕をやってくれる沢渡さんに感激。

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沢渡さんとの出会いは、私の初個展の時、まさか来てくれるとは思わずにご案内を出したら見に来てくださって、私は少女の時からの憧れの人と出会えて身体が震えた。

それから私の撮影をしてくださると言われ、「事務所に電話して。」と言ってくださったのだが、私はそんな恐ろしいことが信じられず、電話などとてもすることができずに5、6年が過ぎた。

私の何回目かの個展に来てくださった時、沢渡さんが「撮影のこと、決めないとどんどん時が過ぎちゃうからさあ。きょう決めちゃおう。」と言われて中野のデルソル(イタリアン)で予定を決めたのを覚えている。私の絵の横に展示できるような写真にしたい、撮影は私の好きな場所で、と言ってくださった。

撮影の日は3月の初めで、小雨模様の骨が痛むような寒い日だった。車で、私の大好きな廃墟に行った。撮られている時、お互いの心の中にだけあって説明などできない世界を、沢渡さんがどんどん顫動させていくように感じた。私は何も意識しないでよかった。あんなにすごい新鮮な体験は二度とないだろう。めまいがするような記憶だ。

古い壁、錆、雫、枯れ蔓、ガラス、ほこり、濡れた土、新芽、襤褸、沢渡さんには何も言わなくても通じるのだ。

11月にも銀座で展示をすると伺った。その時、またお会いするのを楽しみに。

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ちゃび ぺリアクチンの副作用 その他

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10月20日

朝、きのう深夜に皿に入れたシーバ(15~20gほど)きれいに食べてあった。セルシンは即効だが、効き目もすぐに切れてしまう。それなのにきのう深夜1:30には口をつけていなかったシーバが朝には食べてあったことは画期的なことだ!

この頃は、ちゃびが食べてくれるかどうかに意識が集中し、そのために生きているような日々である。

何冊かの本の、記憶に残っている一節を確かめるために読んだり、いくつかの素描をしたりするが、お金になるような働きをしていない。つましい貯金がどんどん崩されていっている破滅的な状態。

母の難病医療補助のための申請(特定医療費支給認定申請書)に、新宿区役所と保健センターに行かなければならないのに、まだ行っていない。電車に乗るのもしんどいくらい身体がきつい。

ちゃびが一日まったく食べてくれないと、自分では気を落ち着けているつもりでも首から背中にかけて過緊張になって、がちがちになる。

私の胃のほうも痛くてたまらず、薬を飲んでいるが胃酸過多で舌が苦い。私も食欲がなくなり、柔らかく炊いた玄米ばかり食べている。体重44kgで安定。外に勤めに出ながら朝と夜に猫の介護をしている人たちもいるのに、自分の脆弱さが情けない。

父は手術は避けられたそうだ。もう家に帰せないと病院で言われて、妹が施設か療養型の病院をさがしているという。父の年金だけでやっていける転院先が見つかるかどうかが大問題だ。いろいろな心配事がいっぱい。

10月19日(日)

朝9時、ガスター、ビオフェルミン、ベトメディン1/8。

ちゃびは薬を吐き出すのがものすごくうまくて、飲んだふりして口の中に溜めといて、あとでペッと出したりする。1/4錠でも大きすぎて私の技量では飲ませられないので、ベトメディンは1/8錠ずつ、一日2回ないし3回飲ませている。

首を90度以上、上を向かせれば口を開ける、と先生は言うが、ちゃびは上を向いても、い~っという感じで歯を食いしばってがんばっている。ベトメディンは苦そうな匂いがするからすごくちゃびが嫌がりそうなのだが、粉にしたほうがいいのだろうか。

11時、セルシン1錠の1/8をさらに欠いて1/10錠くらいにしたものをシリンジの先っちょにくっつけて、牙の後ろから入れて飲ます。

ジュレ1袋、シーバ10粒くらい、ねこ元気15歳ウエットひと口。

12時、トイレにうんこ1粒(緑色でないふつうの)。

夜9時、ビオフェルミン、ベトメディン1/8。セルシン1/10錠。

またも即効。ねこ元気ウエットの残りを食べだす。1袋きれいに食べた。

シーバを皿に出したが、深夜1:30の時点では口をつけていない。

10月18日

朝11時頃、ちゃびのぺリアクチンによる興奮も消え、普通に落ち着いて水を飲んでいた。

昼輸液150ml。一日おきに150mlほど輸液しているが、きのうは輸液しない日だったので、そこにぺリアクチンを飲ませて薬の血中濃度が上がりすぎてしまったのかな、と思う。

とにかくこれからは食欲増進剤は、医師に指示された量の最低ラインの、さらに半分以下で試すことにしようと思う。

さて、興奮させてしまった翌日のきょうも、一日何も食べない。

6時40分頃、H動物病院が閉まる前に輸液セットをもらいに行き、先生にきのうのことを報告、相談。ぺリアクチンで、そこまで興奮する例を知らないが、ちゃびには、他の子の例があてはまらないようだと言われる。

ちゃびの腎不全は、まだ食欲廃絶になるような数値ではなく、他に原因があるのかもしれないが、H動物病院でやれる検査はすべてやったと言われる。昔、京大でMRIを撮ったら脳炎(脳に腫瘍があった)子がいたが、手術できなくてステロイドを使った、ちゃびの場合は脳炎じゃないと思うけど、と言われた。

脳という言葉にものすごく不安になり、このところまいっている私の神経もさらにまいるが、ちゃびを大学病院まで連れて行って脳のMRIを撮るとか、ちょっと考えられない。ちゃびにはものすごいストレスになるだろう。とにかく家で、ちゃびをよく観察しつつがんばるしかない。

「セルシンを試してもいい、ほんの少量で。ぺリアクチンより効果は短い。」とのこと。ガスターは常用していいんですか、と聞いたら、「だいじょうぶ、飲ませられる限り、ガスターも飲ませたほうがいい。」と言われた。

深夜12時、どうしようかと悩んでいたが、セルシンを試みることにした。1錠5mgをはさみで切って1/16(2mm×1.5mm×1mmくらいのカケラ)ほど。

これが即効。1時間しないうちに、さっきまで見向きもしなかったモンプチ芳醇まぐろとろみだし15歳かがやきサポートを食べ出した。1袋60g(24kcalしかないけど)完食。

深夜1:50、トイレに緑色のうんこ2つ。シーバ少々食べた。

10月17日

ちゃびの食欲がまったく安定せず、このところ夜にぺリアクチン(4mg錠の1/4)を飲ませると食欲が出て夜のうちに何回かに分けて食べていてくれたのだが、次の日になると食べないという繰り返しだった。(まだぺリアクチンは3回(3日)くらいしか使っていない。)

H動物病院の先生はぺリアクチンは皮膚病の子は3か月も飲んでるんだから、気にしなくてだいじょうぶ、と言われていた(処方は1/4~1/2錠)のだが・・・。

この日の夜はたいへんなことがおこった。

夜8時頃、ぺリアクチン1/4とベトメディン1/4を飲ませた。

この日は、朝から何も食べていなかったので祈るような思いだ。

10:48、吐きそうなドクドクという動きがあったが、なんとか吐くのを我慢。

10:58、セレニア1/2飲ませる。一度、ぺっと薬を吐いたが、それを拾って飲ませた。

午前1時、ガスター、ビオフェルミン、ベトメディン1/4、ここでまたぺリアクチン1/6くらいを飲ませてしまった(これが最悪だった)。

午前3時過ぎから、水飲み場(風呂場)に行って、ア~オという雄叫び。急いで私が行って背中に触れるとびくっとはねる。

寝室の方に戻って来て、いつもの絵の具箱引き出し(高さ1m)の上に飛び乗る。それからまたそわそわと落ち着きなく飛び降りて、私の布団の頭のところにあるドーナツ座布団に来る。

私が撫でようとしても興奮して振り切って、また風呂場に行って、ア~オ、ア~オと雄叫び。

それを5時くらいまで10数回、繰り返した。

水飲み場について行って、そっと見ていると、水を飲もうとしているが、あまり飲まず、眼が何か動く生き物を追っているようにびびっ、びびっとせわしなく泳いでいた。ちゃび、ちゃび、と声をかけたが私が見えていないようだ。

ぺリアクチンの量が多いと、重大な副作用に錯乱、幻覚などがあるとネットで見て大ショック。

絵の具箱の上に飛び乗ったり、飛び降りたりを繰り返すだけでも心臓に負担がかかりそうなのに、この興奮。私もずっと起きて見守っていたが、かわいそうなのとちゃびに申し訳ないので胸が張り裂けそう。

結局、この夜はジュレだけなめていて、興奮しすぎであまり食べてくれなかった。

ちゃびには、一日にぺリアクチンの量が多すぎたのだろう(計5/12j錠だから1/2錠弱)ことを猛反省。ちょっとしばらくぺリアクチンを飲ますのが怖くなったのでやめようと思う。

10月16日

父が下血し、その後内視鏡検査と手術をすることになったと連絡が来る。妹が病院に行ってくれているので助かる。

10月15日

雑誌『あんちりおん』のためのラフスケッチが花輪和一から送られて来た。私とちゃびがが秋の植物(実際にスケッチしてきたという)に重ねて描かれている構図。

しかしネームに、「「ねえ、チャピー!」「ウンニャ~ン」ミーちゃんハーちゃんキャピキャピ女。」と書いてあったので電話して聞いてしまった。

私「ミーちゃんハーちゃんってどういうこと?私とちゃびにミーハーとなんの関係があるの?」

花輪さん「それはねえ、ギャクを入れようと思ってねえ。」

私「ギャクになってないんだけど。ミーハーの意味、どう思ってる?」

花輪さん「ミーハーってシノラー(古い。)みたいなことでしょ~。」

私「え・・・と、まあ、あってるけど。私とちゃびの関係はミーハーじゃないでしょ。」

花輪さん「むふふふ・・・嫉妬だよね~。」

私「え!?何?ちゃびに嫉妬?」

花輪さん「だってあんまり心配しすぎで、かわいがりすぎだからさ~。神経症の人間は猫にも嫉妬するってことですよ~。そういう子どもの部分が残ってるってことなんだよね~。そのネームぜったいだめって言われるって思って書いたんだけどね~。ちゃびはほんとに幸せだよね~。」

年賀状にいつもちゃびのことを「チャッピー」と書いてくるのも何なのかな、と思っていたけど嫉妬だったとは。

10月14日

治療院にいた時、ちらっと見たテレビに、高橋大輔引退という文字を見た。本当に残念。私はやはり試合の緊張感にさらされている中での、その人のぎりぎりの身体の運動を見たいというのが一番なので、おいおい過去の動画でも見ようかな、と思う。

省エネ演技など思いもよらず、いつも濃すぎるほどの最大、最高のエロティークな演技をしてくれた高橋大輔選手に心から感謝を。

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